ピピピピピの爽やかな日記帳

読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ピピピピピの爽やかな日記帳

親の経営コンサル会社で働く20代後半、社内ニートの話

ピピピピピの爽やかな日記帳

民間人はデマかどうかを検証する必要などまるでない

デマに敏感になる余裕などなし

 そんな見極めに心的リソースを裂いては、この危うい日本社会を乗り切れない。自分の不利益にならないデマはそのまま受け取って楽しむのもまた一興。

 ネットが手軽に使えるようになったことで悪意の拡散を行うものが増えてきたために、至る所でデマ情報を見つけられるようになった。
 それらの情報に触れて、真に正しいものかを判断せずに、言われるがまま「うんうん」頷くのはいけないことなのだろうか。

部屋の片付けすら面倒なのに、どうしてデマの検証など出来ようか

 そもそも世の中の大半の人間は、物事の成否、善悪、正誤になど興味がなく、ただ既知の情報を使って遊びたいだけなのだ。
 それがデマだったとしても、知ったこっちゃない。
 ネットの情報なんてのはゲームのディスクであり、手軽な一つのお遊びに過ぎないからである。

 物事がデマかどうかを、なぜ僕ら民間人が検証せねばならないんだろう。
 仮にデマだったとしても、自分の私生活になんら関わりがなく影響が及ばないことを、わざわざ細部にわたるまで見て調べるなんて面倒なことをするはずがないじゃないか。
 自分の健康に関わるサプリメントすら飲むのが面倒になることが多い人類という生物が、一体どうして他人の流した遠くの情報を根掘り葉掘りチェックするというのか。
 そんなの不可能である。
 人の不幸は蜜の味だが、その産地を調べることなどしない。
 その瞬間に美味さが広がれば、それだけで満足なのだ。

ただ頑張って自分の人生を生きていれば合格

 騙されたら騙された。
 あちゃー、の一言を口にしてまた頑張るのみだ。
 情報の真偽なんぞに頭を悩ます暇があったら、女の子とデートする際に持って行くすべらない話でも考えておいた方が万倍、自分の人生を豊かにする可能性が高い。

 娯楽としてのデマ対策はしても、社会のためにデマについて掘り下げることなんてしなくて良い。
 そんなことしてる暇があったら、ゲームでレベル上げをしたいし、アイドル声優のライブに行きたいし、ペットショップでフクロウを見ていたい。
 なにより正義の行使は骨が折れる。
 だからそれは、国家が用意した正義のヒーローに頑張らせれば良い。
 民間人は一人一人、自分の仕事を必死にして生きればそれで十分なのである。

 たとえばオリンピックで金メダル級の選手が、ちょっとしたデマに踊らされていたら、「彼は必死にやるべきことをやってるんだ。仕方ないよ」となるはず。
 それと同じように僕ら大したことのない人間だって、目の前のやるべきことに必死に取り掛かっているんだから、遠くの出来事がデマだろうがなんだろうがどうだって構わない態度で生きても許されてしかるべき。忙しい中で情報を見て笑う。それで良いでないか。自分に必要なことを掘り下げれば良い話であって、どうでも良さそうなニュースに関しては、最悪デマだろうと一緒に盛り上がれば良いし、その後デマだと分かってから、「悪いことしたな」と罪悪感を抱いてますアピールをしておけば全ての問題は立ち消える。

嘘でも人の心は揺さぶれる

 僕がこの時代になって痛感したのは、なんの想いも込められていない虚言であっても、人々の琴線に触れることがあるということだ。
 情熱は伝わる、真剣な想いで人は動く、などと言われているが、人は狼少年の妄言にすら感動してしまう適当極まる生き物なのだ。

 なぜなれば人は、誰かの放った言葉をそっくりそのまま、自分の内に入れることはないからだ。
 どんな識者であれ、生きる中で培った感性、見聞、嗜好性、を土台にして想像し吸収して行く。
 言葉そのものなんて、思考の材料でしかない。

デマに踊らされることで健康維持

 極端な言い方すると、人の放った言葉なんてどうでも良いものであり、それを受け取って加工しはじめて価値を持つ。
 そして自分の人生になんら影響を及ぼさないことなどには、そうした思考フローは半ば自動的に行われる。
 無駄なエネルギーを使用しないための節約を脳がしてくれることによって、頭や心がパンクし狂わずに済むのだ。
 それゆえに、自分とはほど遠い世界にある物事を安易に信じてしまう浅はかさは、自分のため、ひいては社会のためになる平和を築く。
 スラム街なんかを見ても分かるが、人は追い込まれることで常軌を逸し、世間を破壊する危険者となる。
 脳や心を過剰に動かしてしまうと、人は人を継続出来なくなる可能性があるのだ。
 言語と感情の組み合わせにより考えるということが、人間をその他の生物から頭一つ抜き出す要素になっているものの、その考える度合いが高まり過ぎると、逆に退行催眠でも欠けられたように獣返りしてしまう。
 過ぎたるは及ばざるが如し、なのだ。

僕らは自分の生活範囲で頑張ることに精一杯な生き物

 原始人だって、自分たちが生き残るための活動しかしていなかった。
 そうした古いころに形作られたDNAや脳の基礎部分に関しては、今日に至るまでほとんど変わっていないと言われている。
 一万年も前から半ば固定されたに近いものを、文明が開化したからという理由で酷使して、急激な変化を加えようものなら精神が崩壊し、長い歴史に喧嘩を売ったことで呪われ、鬼人化するのも無理はないだろう。
 つまり、僕らが必要以上にデマを検証して疲弊してしまうと、それは先人が築いてきた尊いものを貶す行為にもなるわけだ。
 脈々と美しいままに継承されてきた人類の宝を、デマの検証という形で水の泡にしてしまって良いわけがない。

信念を持って情報を鵜呑みにしてゆく

 太古の人類は、おいしそうなものがあればひとまず口に入れてみたに違いない。
 それはきっと手に汗握る、生死を賭けた試食会だったのだろう。
 その頃を想像すれば、今の僕らはなんと生ぬるい地球社会を生きているんだ、と思わずにはいられない。
 どんなに悪質なデマを信じたとしても、毒が回って人体が機能不全を引き起こしたり、最悪死に至ることはなく、ただ「やられたー」の一言で終わるのみだ。
 それも騙されて悲しい、という気分になるだけであり、自分の生活にはなんの支障もないことがほとんどである。
 なんて素晴らしい社会だ。
 古代を死に物狂いで生きた人々が、殺人猿と食うか食われるかの鬼ごっこをしながら、命を生け贄にして築き上げてきたこの世界は、なんて素晴らしいんだろう。

 僕はそうした、宝の山を残してくれた先人たちの魂を敬う心を忘れたくない。
 己に負担を掛けない生き方を志し、なるだけ綺麗なままに人心を天界へと持って行き、そこで対面する尊き魂たちに感謝を表明したいのだ。
 ゆえに、デマを検証しない。

 

群衆心理 (講談社学術文庫)

群衆心理 (講談社学術文庫)

 

 

 

 

 

情報倫理 ―ネットの炎上予防と対策―

情報倫理 ―ネットの炎上予防と対策―