ピピピピピの爽やかな日記帳

ピピピピピの爽やかな日記帳

親の経営コンサル会社で働く20代後半、社内ニートの話

ピピピピピの爽やかな日記帳

病んでる系の記事は評価されやすく、メンヘラが自分を名文家と錯覚してしまう恐ろしいものである

人を刺激しやすいワードってのが存在する

 人間って言葉に引っ張られやすい生き物だから、「寂寞感、焦燥感、憂鬱、鬱々、鬱屈、陰気、暗澹」など暗い言葉を散りばめて人生の嫌だったことを適当に語るだけで、熱量が凄いと評価されがちだ。それに加えて、「誰かの影が私の心に侵入して暴れているような違和感があります」とか「日の光が私の決して表出させてはならない部分を炙り出してしまいます」など一般私生活にちょっとした異常な現象が起きているという嘘を付け加えるだけで、「文章力がある」と褒めて貰えるのがはてなの文化だ。
 それゆえに、そうした人たちがはてなブログをやっていると、「私って物書きとしてやっていけるのかも!」とめらめらやる気が燃え始めてしまう。

底浅い病み人が増えている

 今の時代のメンヘラの大半ってのは、誰かと比べて劣っていると考える相対的な病みを抱えた人ばかりなんだよね。
 闇が浅い。浅瀬のような闇しか広がっていない。
 だから、主婦系のブロガーが本気で病み記事にトライし始めたら、今のメンヘラ系ブロガーたちは一発で負けると思う。
 というのも、子供を産み育てるという次元の高いことの真っ最中にいる男女ってのは、自分の為でなく誰かの為に悩むという状況にいる。
 誰かと比べてどうのこうのではなく、我が子の為に自分と見つめ合い、自分自身と語り合い、そして深く悩んで答えを見つけようとする。
 それって神との対話のごとく厳かで、奥深いことだと思うんだよね。
 相対的なものではなく、絶対的な紆余曲折の中で頭を悩ましている。
 こうした本当の自分と交流する中で這い出てきた嘆きは深い。

偉人と呼ばれる小説家たちの病み方は、絶対的なものだった

 純文学の作家とかで昔から評価されてる人たちって、病んでる人やクズが多いってイメージが世間にはある。
 彼らがなんで深みのある世界を築けたかっていうと、絶対的な病みに支配されていたからだと思う。
 ネットも普及していないから、溜まった負のエネルギーを小出しにしてしまうようなことはしなかった。
 だから、常に莫大な闇を抱えていた。
 それも遠くの誰かと比べるようなものではなく、常に比較は自分自身だった。
 たぶん太宰やラブクラフトヘミングウェイなんかに聞けば、「そうだよ」って言うと思う。
 今の病んでる系の記事などを書いている人って、ぱっと見は斬新で面白い考えを持った人だと感じられるかもしれないが、実のところは浅い闇の中で泳いでいるだけで、その苦しみを楽に緩和するために刺激的な言葉を用いた毒々しい文章遊びをしているだけに過ぎないのではないか。

絶望ごっこ止まりのブロガー

 はてなブログ的病み方みたいなのがあるけれど、僕はそれって一般文学をはじめとした商業ではどこであれ通用しない病みだと思う。
 プチ知識人被れの死体ごっこみたいなもので、所詮絶望ごっこなんだよね。
 病んでいて自分はクズだ……と言っている人ってのはキャラ作りがしたいだけで、全然クズじゃない。
 精神的に疲れていてかわいそうなだけで、決してクズじゃないし、特別な闇を抱えている訳でもない。
 傍目だと闇が見えない。全然黒くない。必死に全身に黒ペンキを塗ろうとしているようには見えるけれど。
 彼らは、凡百の悩みに苦しむ過程で、それらを特別視しているだけなのだ。
「自分は病んでしまっている。だからこそ人より優れた何かが出来るかもしれない。病んでる偉人だっていくらでもいる」と考えて、病んだ自分だからこそ達成可能な何かが必ずあるという歪んだ全能感を得てしまっている。
 でも悲しいかな、有象無象メンヘラなんだよね。

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絶望版小説家になろうなんてこの先も出ない

 相対的な、つまり無意識に誰かと比べて病んでいる人ってのは、ありふれているんだ。
 そういう人の書く文章ってのは大概似ている。
 病みテンプレみたいなのが出来上がっている。
 だから、病み読者はそれに共感しやすく疲れずに一気読みしやすい。
 楽に読めて過去の自分を再体験しやすいのだから、薄っぺらい病み記事に対しても、「凄い熱量!」「この人は文才あるな」「小説家に向いている」などのコメントが並びやすくなる。
 このように今の世の中には、平凡な波瀾万丈が溢れだしている。分かりやすくてどん栗の背比べな苦労話だらけである。
 相対的に病むっていうのは、換言すれば、社会を取り巻く情報に毒されているということだ。
 双方向性メディアが増えてきたとはいえ、僕ら人類が怠惰なのだから、基本的には受け身で情報を得ている。
 だから似たような病んだ人が増えるのは当然の帰結。
 つまらないメンヘラ量産世界になってしまっているんだ。
 この先、絶望版小説家になろうみたいなサイトがヒットするならまだ生きる道があるだろうけれど、まずありえないから、そのやり方で突き進むと結局行き着く先にあるのは心空っぽの虚無感ましましな余生でしかない。

絶望を書いて人を釣る作業ってのは、最も簡単な事

 僕も以前のブログで病み記事系を書くとすぐに100とか200のブクマがついた訳だが、思い返してみればそんなものを書いた意味などまるでなかったし、それらって誰にでも起きる心の疲労現象を無駄に暗い言葉を使って語っているだけなんだよね。
 そして必要以上に病んでいる記事をわざわざ見ようとする人ってのは、はなから肯定してやろうと思っているか、ざっくり否定してやろうと思っているかのどちらかの場合が多い。
 であるから、賛否両論の起きる人になる。
 賛否両論ある中に、「熱量が凄い」「筆力がやばい」など書かれていると、まるで自分が有名な作家になったかのような気分になってしまう。
 はてなの病み界隈ってのは、どこよりも錯覚が起きやすい場所なのかもしれない。
 そもそも文章の上手い下手なんて、一記事だとか短文で決まらない。
 それにその辺の街歩く人に声を掛け、100人くらい集めて、「今日一日この部屋に閉じこもって3000文字の病み記事を書いてください。類語辞典ここにありますんで。寂しいとか直接的に書かずに調べて回りくどく書くと、より病んでいる感出ますよ。心が夕闇となった、住処へ飛び帰るカラスの鳴き声のように腹が鳴った的な。そんな方法で暗い例えを随所に散りばめてください。ゆるく揺れる水たまりに映る自分を見ている私の心は、激しく動揺していた、みたいな自然的現象と自分の心の動きを無理矢理合わせると臨場感生まれますよ」なんて命令とアドバイスしたら、ほとんどの人間が人の心を動かすような病みの世界を紡げる気がする。
 書くか書かないかの違いなだけなんじゃないかな。
 絶望的な文章ってのは一番楽に書けるんだよ。
 運動嫌いの子供がさ、筋肉を駆使して駄々こねてるの見たことあるよね?
 そういう駄々っ子を見て、「すげぇ、嫉妬をパワーに変換してる!」「才能あるね」「凄い熱量」なんて言う人はたまにしかいない。
 でも、はてなでは言われるんだ。
 偽りの愛が降ってる。愛がタイピングされている。ペラッペラの愛が。
 絶望と錯覚と偽造と依存と嫉妬と欲望で成り立ったメンヘラは、今日も名文を書こうとしている。

 優しくて残酷な世界。

 

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ (講談社文庫)

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ (講談社文庫)

 

 女流作家の作品の中で一番好き。自分に才能があると勘違いしちゃっている系女の話。準メンヘラかな? 最後の畳み掛け、自分に才能がないってことを認めちゃいそうで認めない、ぎりぎりの瀬戸際みたいな懊悩煩悶シーンがほんと泣けるし、心が痛くなる。現代のメンヘラの心の動きを如実に再現したような小説。僕も含めて世の中のみんなは、自分には何かが出来ると想いながらもろくな成果を上げられずに藻掻いてる人がほとんどな訳だから、共感出来ない人はいないんじゃないかってぐらい素晴らしい作品。

 女の子ってやはり言語能力に優れているからなのか、そのまま脳に突き刺してくるような文章を書ける人が多い印象あるな。

 はてなブログだと、パプリコさんとかトイアンナさん辺りがたぶん女の子だけれど、やはりずば抜けて面白いもんな。 

 

虚ろまんてぃっく

虚ろまんてぃっく

 

 この世の純文学小説の中で一番面白いかもしれない。この方って、芥川賞作家の中でも抜きんでてる気がするな。『不道徳きわまりないとてつもなく美学に反する』っていうセリフのどんぴしゃり方が格好良すぎる。余韻が異常。

 小説の美しさって言うのは、途方もない文字数を駆使して物語を巨大化させ、それをあえて破壊していくような豪快さにあるのかもなって思った。ブログなんかだと所詮は投げっぱなしだから、本来そんなものに大した力も熱もないと思うんだよね。当たるか外れるか分からないのに少なくとも六万文字以上の作品に全精神力を注ぎ込む、その忍耐の過程で少しずつ言葉に熱が生じていくんじゃないかな。