ピピピピピの爽やかな日記帳

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ピピピピピの爽やかな日記帳

親の経営コンサル会社で働く20代後半、社内ニートの話

ピピピピピの爽やかな日記帳

メンヘラを叩く人は99.9%メンヘラであるから、慈悲の心でスルーするべき

精神病VS健常者という誤った考え方

 メンヘラの中には、健常者が精神病者を攻撃しているという軸で話を展開したがる人がいる。
 これによって本来は対立する必要のない二者が争ってしまう。
 少し前にもメンヘラを煽り立てる刺々しい記事があった。
 モノアミン仮説だとか神経科学の用語を持ち出して、メンヘラを猛襲していた。
 はてブは0だが燃えていた。
 これって高確率で病んでいる人が見せる、精神病状の一つなのではないか。
 その記事を読んでいて、メンヘラを侮辱しているというより、ある意味、自傷行為の最中なんじゃないかと思えた。
 深刻なくらいに精神的に疲弊している状況にあるか、躁転した直後なのかもしれない。
 みんなで激しく注意してしまうのは、リスカする女の子に、「汚い血を飛び散らせないでください。迷惑です」と怒鳴ったのに近いことになるんじゃないか。

過度なメンヘラ叩きってのは、SOSの亜種

 であるからそうした相手に、寄って集って批判や反論をしてしまうと、精神病者が病状を隠さないと生きていけないくらいに社会が冷たいものとなるかもしれない。
 社会全体の鬱度が高まり、回り回ってその他のメンヘラも、より生きづらくなる。
 もちろんメンヘラがメンヘラ叩きに烈火の如く反論してしまうのは、易怒性(いどせい)という喧嘩を売られたら黙っていられないという病状もあるから仕方ないとして、僕らのように心の安定した者は拳を振り上げるべきではない気がする。
 メンヘラがメンヘラと争うのは、メンヘラ故のものだから致し方ない、が。

精神病は複雑であるから厄介

「わたしは病んでいます」といえる人だけが病んでいる訳じゃない。
 誰もが素直に、真っ直ぐな言葉で表現してくれるなら楽なんだけれど、病んでいないフリをした病んでいる人もごっそりいる。
 躁転した直後のメンヘラなんかだと、ドーパミンなど神経伝達物質の過剰分泌などのせいで、「精神病なんて甘えだろ」と叫びたくなるほどに浮つくこともあるわけだ。
 だからメンヘラ叩きの99.9%ってこれに類する、精神病者の病状の一つなんじゃないかと思うんだよね。
 僕の働くコンサル会社にも、メンヘラ問題で悩んでいる経営者が多数訪れる。
 畑違いだから確かな回答は出来ないけれど、その辺の相談に乗る機会はたくさんある。
 そんな中で話を聞いていると、メンヘラというのは画一的じゃないからこそ扱いが難しいという結論に至る。
 メンヘラは複雑な存在であることをもっと周知するべきだなとは思うね。
 特に企業的メンヘラ問題の中では、病んでいる自分を認められなくて、錯乱状態にある社員の話がしょっちゅう出る。
「わたしは薬を飲んでいます、わたしは病んでいます」としっかり教えてくれる社員には対策が打ちやすい。
 頑張れる時に頑張って貰って、どうしても辛いときは旅行しても良いし、心を休ませながら働いてください、と単刀直入にお願い可能だからだ。
 対照的に、「いや、大丈夫です! わたしは病んでなんかいません! もう治りました!」というメンヘラの対応はすこぶる難しい。
 傾向的に男性社員に多くて、「自分が精神を壊す弱者なはずがない!」などと強くありたい自分を見せつけようとしてしまいがちなのだ。
 傍目から見ても限界を来しているのに、頑固に耐え続けるもんだから、いつ心的に破裂するか分からないぐらい殺気立っている。
 そしてこうした人の特徴の一つとして、鬱病をはじめとした精神病に対しての反論意見を集め、精神病なんてのは時代が作り出した紛い物だと考えてしまうことがある。
 自分の辛さを覆い隠すために、変な方向に努力してしまうのだ。
 そのせいで自分を抑えきれないくらいになって、時折暴れ回ったり、ネットで暴論を吐いたりと、異常行動に打って出る。
 これはやはり、本能的にSOSを発している状態なのではないか。
 同族嫌悪というよりも、「弱い自分なんかじゃ嫌だ!」という必死の叫びなんだよね。
 メンヘラがメンヘラ叩きという症状を出して、それを見たメンヘラが憎しみを盛って反論したくなるという症状を出すという、お互いに辛い状態になっているから、このネット世界ってのは大変なのである。
 これと似たり寄ったりなことが企業でも頻出していて、その辺に悩んでいる経営者があっぷあっぷしている。
 どっちの味方にもなれないし、どっちの敵にもなれない訳だ。
 どちらも病気の被害者なのであって、その被害ゆえに暴言に近い加害行動に出てしまっているだけなのだから。
 僕らは自社で精神科医を雇っている訳でもないから、その根本的な解決はほとんど無理に近くて、大概はなるべくラポールを築いて少しでも心的に良好な状態で働けるように環境を整えるか、もしくは働き方の形態変更を促すか、くらいのことしか出来なくて終わる。
 最悪の場合はその人が大問題を起こして、最悪の結末を遂げる。
 争いは同じレベルの者同士でしか発生しない、って言葉があるけれど、やはり争いは同じような境遇にあるからこそ起きてしまうんだよね。
 お互いに苦しんで悩んで頑張って生きているんだけど、途中でどっちかが相手の苦しみを見てなぜか不快感を覚え、攻撃に転じ始めてしまう。
 ここでいう不快感っていうのは、同じように病んでいる相手を鏡に映る自分のように思ってしまい、なんて自分は情けないんだろうと自暴自棄に見てしまうという意味だ。
 酷いメンヘラ叩きの文章で心を痛める人が多いのは、それを書いた人がメンヘラの急所を心得ているメンヘラだからの可能性が高い。
 似たものの言葉が一番痛いんだよね。

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メンヘラ叩きをするメンヘラを叩くメンヘラの心は傷がつきやすい

 悪意そのものを見ただけでは、人はおかしくならないんだけれど、それについて考え、憎しみ、反論すると徐々に心に傷が入って行くものだ。
 それゆえに、メンヘラ叩きの記事を叩くと言う行為は、共倒れの始まりになってしまう可能性が高い。
 病状として防衛的な反撃に打って出てしまうなら仕方ないが、自制心が少しでも働くときは、ぐっと堪えるのも必要だ。
 メンヘラの常套句として、「メンヘラの気持ちも分からない人がメンヘラについてあれこれ言わないでください」というものがある。
 一理あるけれど、メンヘラも他のメンヘラのことは良く分からないってのが現状なんだよね。
 人の心って複雑な訳だから、全ての人間は全ての人間のことが良く分かっちゃいない。
 これは他人だけでなく自分のことも含めて。
 人って図星を突かれたときに、図星を突かれてなんかいないと無意識にその感覚を抑圧することによって、疲れたり怒ったりすることが多い。
 僕自身の人生経験を振り返っても、実は自分と似たような人に苛立たせられることだらけだった。
 似てるからこそ、その人の行動を見てしまうし、少し変なことをしていると自分までおかしくなったように感じるから。
 だから心を痛め付けられる事柄に出会ったメンヘラは、一端そこで深呼吸でもして、目の前の出来事が誰かしらの精神病の病状によって致し方なく発生している災害のようなものなのではないか、としっかり考えてから結論を出した方が良いんじゃないかと思う。
 そこで殴りに行ってしまうと、必ず将来的に今度は自分が殴られてしまうから。
 極端に言えば、病状と病状のぶつかり合いが、ネットで起きているんだよね。
 悪意の争いなんじゃなくて、渇望のような、助けてくれというSOSの投げ合いだと感じる。
 メンヘラ同士が歯に着せぬ言葉で言及し合っているのを見たりすると、どっちが正しいとかじゃなくて、どっちも心底辛そうにしか見えない。
 だから僕個人の意見としては、明らかに攻撃的な人を見ても、物理的に何かされた場合を除いてはスルーするのが大事だと思う。
 その攻撃性っていうのは、一時的な病状、波のある病状であって、またいずれ落ち着くのではないか。
 我慢の限界状態であると思うし、そこに正論を投げ込むと、その病状が悪化する可能性がある。
 ある程度は許しちゃうようにしないと、メンヘラがメンヘラの世界を居心地悪くさせてしまう可能性が非常に高い。
 メンヘラのブログを読んでいると、「健常者の人はなにも分かってくれない」「メンヘラじゃない人のメンヘラ叩きは酷い」って意見を見掛けるけれど、そこの認識が誤っているかもしれない。

メンヘラを悩ましているのは、大概メンヘラ

 メンヘラがお互いに正義の行動をし合うことによって、歪みが生じているんだよね。
 メンヘラって真面目だから、これは良くないこれはダメだ、と白黒思考で考えてしまう。
 これも病状だから仕方ないんだけれど、この病状がとてつもなく厄介なんだよね。
 たとえば躁鬱病の人だと、普段は凄い良い人で頑張り屋さんなんだけれど、あるとき急に憎しみが沸いてきてそれをぶちまけてしまったりもする。
 そのときにその憎しみを文章にしてネット世界に流す場合もある訳だ。
 それを見た他のメンヘラが、「なんて酷いんだろう。最低だこの人」と断罪してしまう。
 つまり悪気はないのに、メンヘラが我慢して我慢して耐えきれなくて出してしまった病状を、メンヘラが叩いたことになるわけだ。
 お互いに悪気がないのに、お互いに消耗しているのである。
 メンヘラ同士が互いの心をひっかき合っている。
 これが繰り返されているのが現状なのだ。

メンヘラは、自分の言葉を諸刃の剣と捉える必要がある

 メンヘラにとって住み心地の良い社会を築きたいという理念を持って、メンヘラ系のブログをやっている人もいるだろうけれど、ばっさり誰かを切るようなスタンスで運営してしまうと、それは同時にメンヘラが苦痛になる社会を促進してしまっている可能性もあることを心に置くべきだろう。
 人間社会は複雑なのだ。複雑なところに、批判という単純明快なやり方だけで乗り込むと、ますます狂わせるだけになってしまうかもしれない。
 だから僕は、自分の精神状態に自信のないメンヘラは、まずは自分の心を良くすることだけ第一優先にしてゆっくり毎日過ごすのが大切だと思う。
 ネットで誰かに物申したり、自分はメンヘラについてこれこれこう思います、と発信するのは危険が伴うことだから。
「ブログやツイッターを発信することによって辛いこともあるけれども、精神的に良くなってきた気がする」っていう意見をたくさんのメンヘラが出している。
 でも僕はそれを見ていて、依存症に近いなって思っちゃうんだよね。
 メンヘラブロガーが病んで、それが時間の経過によって良くなったとき、本来は時間が解決しただけなのに、「ブログのお陰だ」と無理矢理こじつけてしまっている可能性がある。
 メンヘラとネットってリスクのある組み合わせだと思わずにはいられないね。
 まぁどうあれ、最後には個人が自分の選択で人生を決めるしかないから、強制は出来ないんだけれど、そう強く感じてしまうよね。
 自分のため、他人のためが、自分と他人の首を絞める可能性があることを頭に入れておく必要はあるだろう。
 そして僕が一番思うのは、強い使命感を持った心の不安定な人は、危険だってこと。
 危なげ心が浮上させた正義感って通り魔みたいなものだから。
 誰かの信念って、誰かの脅威でもあるからね。
 刺し違えても死なないような強靱な人間でないなら、正義だとか悪だとか考えない方が良い。
 お茶の間に座るのも人生。

メンヘラ雑記

 自分だけの想いから生まれた正義ってのは、悪意とそんなに種類が変わらない気がする。
 勝手な正義を貫いて、許せない人間を叩く、これはテロリストの発想だからね。
 ネット社会って、万人の万人に対する闘争が深刻化する場所だから、まぁ止められないのかもだけど。
 
 メンヘラ叩きってのは、攻撃でなくて、渇望であることがほとんどと思われる。
 エーリッヒフロムが言うような悪性で破壊性のある攻撃性、とは違う気がする。
 
 メンヘラ叩きをしちゃうほど精神が弱っている人を、みんなで酷いですねと叩くのって魔女狩りに近いよね。
 誰かがこの人はろくでもない人間です、と決めつけると、集団がそこへ殺意をシフトさせる。
 どれだけ良識ぶっている者でも、気質がいじめっ子なんだよね。
 僕も含めて全ての人間は、本能的に誰かをいじめるのが大好きなのだ。
 人間って悪趣味なんだよ。
 争いが大好き。
 でも世間的にそう思われないために、理由のある戦いを好むようになったのが、現代人だ。
 悪いことをやっている人間を徹底的に糾弾するだとか、自分たちを被害者と考えて大きな敵に立ち向かっている気になっちゃうとか、このような世間的に認められる争いを楽しむようになった。
 どこまでいっても人は愚かなのである。
 だからこそ運動をしたり、栄養を摂取したり、人と笑い合ったり、人と感謝し合ったり、人と喜びを分かち合ったりして、騙し騙しのごとく良い人間のまま棺桶に入るように努力する訳だ。野菜を摂取し、筋トレし、瞑想し、そうやってxevraった生き方をする。
 それが出来ないと、旧来の人類、血なまぐさい猿人類と変わらなくなってしまう。
 愚かな自分や他人を許容する心を養って行かないと、果ては自分の正義を追求する社会悪みたいな厄介者に落ちぶれるだろう。
「なんであんな性格の悪い人が成功しているんだろう」とか思っちゃいがちな人は、本気で気をつけた方が良い。
 そういう成功者っていうのは、自分や他人の愚かさを許した上で、心健やかに生きているからたとえ自分勝手に見えたとしても、人に愛されるんだよね。
 
 自分が辛い思いをしたから、他人の辛さも分かってあげられるという自負心は、役に立たない場合もある。
 ただただ主観でしかない想いを積み重ねて行っても、他人からすると傍迷惑にしか思えなかったりする。
 客観性を欠いた発言なんて、ただの自己満足でしかない。
 自己満足の枠から抜けない日記を書くのは、自分の気分を落ち着けるための一つの手段であるだけなら良いのだが、この自己満足文でしかないものを読んで他の方も是非頑張ってくださいね、という方針を取ってしまうと、途端に善意の暴走に成り果てる。
 己の経験談という、単なる日常の記憶を薬物として配るのは危ないよね。
 経験則なんてのは、その人の持ちうる価値観でどんなものにでも変容してしまうものだ。
 過激宗教もそうした個人の身勝手な善意の暴走からスタートしていることがほとんどである。
 自分は幸せなのに、人を不幸に貶めようとする健常者がいます、この発想ってなんの根拠もないし、争いのための種作りをしているに過ぎないのである。
 イマジナリーエネミーみたいなもんだよね、それは。
 相手の生態を勝手に、幸福なる傲慢な悪人と決めつけているのだから。
 こうして段々と分離主義になっていって、今所属している社会は腐っている、だから一度破壊するべきだ、我々は自分たちが住み心地良い国を築くべきだ、などといった危険思想を育んでしまう可能性もある。
 信念なんて爆弾みたいなもので、それを扱える技量がない人は、持つだけでも危険だってことだ。
 メンヘラがメンヘラの人生を豊かにしようと動いているのを見ると、万人の万人に対する闘争になっちゃってるな、とたまに感じる。
 しかも言葉という、法律や規制に触れにくい好都合な武器を持って、ドンパチやっているのが今のネット社会。
 
 メンヘラのメンヘラに優しい文章の危険性
 完璧な人間なんていないんですと啓蒙しようとするメンヘラが、「理想の不完全さ」というものを持っているために事態がややこしくなっている。
 人を許しましょうと口にしている割に、自分の理想から外れた不完全な者を見つけると、全力で裁いてしまう。
 悟りの境地でバトルロワイアル
 自分の中から外れた人を全て敵認定してしまう結果、相手の実体を見失って、妄想の中で敵が巨大になって行く。
 つまり空想作品と戦ってしまっている。
 フィクションにクレームを出している人になってしまう。
 誰かが核心を突いた忠告をしても、「いいえ、わたしのやり方は正しいです。読者がその証左です」などと飛躍した反論をしてくる。
 というのも、「希望を貰えました!」「ありがとう!」「元気が出ました!」とコメントを残す読者は、そもそもがそういう文章を求めていた人であって、最初からそういったポジティブな礼の言葉を用意しているからだ。
 それにネット世界のコメントは極端なものなんだよね。
 記事を読んでどっちつかずの気持ちになった人は、わざわざコメントをすることがないからだ。
 人はそもそも利己主義なんだよね。でもそれだけじゃダメだと思って、ちょっとは社会貢献を考える。
 そうやって天使と悪魔の間で揺れながら、不完全に生きている。
 だから中正の道を左右にブレながらも、真っ直ぐ歩けるように意識して生きるしかない。
 遊びのある人は、人に好かれやすくて幸せになりやすくて成功者になりやすいって言われているが、これは中庸を得られた生き方をしているからだよね。
 世界の偏りを知りながら、みんなが何かに影響されて右に寄り左に寄り、危なっかしく生きることを分かっているから、人に優しくなれるし、自分も許せるから、自分も含めた周囲の人間みんなが幸せになるんだ。
 それが自然と社会貢献になっているから、金が伴ってくるのである。
 偏りを知ろうとせず、自分の中だけの正義を貫いて結果を出せる人は天才だけなんだよね。
 凡人がこうした天才と同じ道を歩くと、全人類の迷惑になる。
 社会貢献が先じゃなくて、自分の好き勝手な行動に社会貢献を上手いことはめ込んで生きるくらいが、無理がなくて良い気がする。
 最初から勢い込んで、自分の心が安定していないにも関わらず誰かのためを考えて生きると、誰のためにも自分のためにもならないで終わってしまう。
 
 まぁ人はどこまでいっても利己主義であるし、何から何まで、あれもこれも、どれもそれも、全ては人間だからこそ起こるトラブルであって、止めようのない命ある者が蠢く社会の必然であるし、どうしようもないの一言で片付けて、適当に生きるしかないんだよね。
 この記事だって本業の仕事で使うための考えを深めるために書いている訳であるし、所詮は利己主義の塊であり、その上で、どうせなら他人のためになるかもしれないことを書いて自分だけが得をしようとするような、不徳的な現状から逃れようとしているだけのズルい行為に過ぎないものだからね。
 
 人間なんてみんな人間でしかないから、世界はこういうものなのである。
 人間に女神性を求めるのは、狂いの始まり。

 

厭な小説 文庫版 (祥伝社文庫)

厭な小説 文庫版 (祥伝社文庫)

 

(絶望的な世界の中で、作られた絶望を読むことは癖になる。厭なことは中毒になると思った一冊)

 

ものぐさ精神分析 (中公文庫)

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(この本の鋭さに触れると、生きるのが一気に楽になる。物事をなるだけ客観的に捉えて言葉で明快に説明出来るようになると、人の人生は天国になるのかもと思った一冊)