ピピピピピの爽やかな日記帳

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ピピピピピの爽やかな日記帳

親の経営コンサル会社で働く20代後半、社内ニートの話

ピピピピピの爽やかな日記帳

長時間残業をさせてメンタルの強い社員を炙り出すべき 経営には優生思想が必要

 僕の働く経営コンサル会社における業務内容は広いのだが、やはり企業の一番の問題は人であり、相談しに来てくれるクライアントたちの話題はほとんどみなそれである。
 そこで痛感した事柄について、遠慮会釈なく書くことにした。

端的なまとめ

・長時間残業をさせる中で、強靱な精神を持った社員を確保し、優先して育て上げ、出世させる。
・問題を起こす社員というのは、メンタルの弱さからくる余裕のなさゆえに過ちを犯してしまうもの。
真っ先に、メンタル的な強者と弱者の選別を行うべき。早い段階でこれをやって、強い者は出世させ、弱い者は一般職など心に負担の掛からない業務をマイペースにやらせる。
・企業は存続してなんぼであるから、優生思想じみた冷酷的判断がときに必要。
・メンタルが弱くて普通に働けなくなった弱者は、障害者枠で働く(企業に助成金も入るため、緩い働き方を許してくれやすい)か、国家のセーフティーネットを活用。
・ブラック企業や残業というパワーワードが横行していて、経営者を悪代官のように見る者もいるが、実際のところ、善良な経営者の方が遙かに多い
・心の弱者は、治療に専念し、ブログやツイッターなど傷付くリスクのある場所に立ち寄らない方が良く、快方に向かうまでは、国や世間、企業に対して怒りを持って訴えたりしないように暮らす方が良い。じゃないと自業自得、飛んで火に入る夏の虫
・社会の歪みを直すために動くのは、弱者ではなく強者。つまりノブレス・オブリージュ。弱者が動くと逆効果になる確率が極めて高く、強者が社会的責任の下に動くべき

高次元の仕事をするには、タフなメンタルが必要とされやすい

 ある労働者が、出世に値するかどうかを判断する上で、強靱なメンタルを保有しているかどうかは何よりも重要になってくる。
 マネジメントが必須の役職につけば、自分の業務に加えて、部下の働きぶりも徹底して見てあげなくてはならない。
 そうなると、平社員だった頃のように単一の仕事を黙々とやるような働き方が出来なくなる。
 つまりマルチタスクな活動を涼しい顔でする人間こそ、部下を持つべきであり、そういう社員をしっかり育てて行かなくてはならない。
 メンタルの強弱を見極める、手っ取り早い方法として、多忙な業務の中でどれだけ余裕を持って働けているかを見るというのがある。

一部の有能な人間を除けば、人の能力はさほど変わらない

 違いがあるのは、メンタルの強さだけである。
 会社を存続させる上では、ときに冷酷にならなくてはいけない。
 感情を排して、「役立つか、役立たないか」といった指針を元に、出世させるかどうかを決めることも必要だ。
 精神力さえ強ければ、努力も継続しやすく、きちんとスキルを積んで行ける。
 だからそういう貴重な人材との間に、即座にラポールを築き、なるべく大きな裁量権を与え、彼らが目標をクリアするたびに権限委譲を行い、自由度高く伸び伸びと働かせてやる必要がある。
 僕が働く経営コンサル会社には、数多くの役員たちが厄介な社員についての相談を持ちかけて来るのだが、問題社員として浮上する人は、九分九厘メンタルが弱い人なのだ。

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心の弱さゆえに、問題社員となる

 人が社内に迷惑を及ぼすとき、それはその人の性格の悪さが露呈しているのではなく、心が弱いゆえに余裕がなくなり、おかしくなっているだけなのである。
 だから長い目で見ても、そういう社員を出世させたりするのは、それ自体が不幸を呼んでしまうことになりかねない。

会社を存続させるための、経営的優生思想

 ごく少数の有能な者は抜きにして、一般的な社員を見る際には、真っ先にメンタルの強弱を観察するべきだ。
 冷酷なぐらいにばっさりと、弱い人は出世レースから外し、強い人を優先的に面倒見て育て上げる方が、会社全体の利益になり、果ては社会貢献に繋がる。
 企業の多くは小さな規模なのだから、優しさだけで運営していたらすぐに破滅してしまう。

資本主義社会である以上、残業は避けられない

 ブラック企業や大企業は別にすると、業務量の多さや、受注タイミングなどによって、どうしても残業せざるを得なくて、社員に頑張って貰うしかないという会社がほとんどだ。
 資本主義競争がベースにあるから、企業同士も熾烈に争っているため、余裕を持って働くなんていう悠長なことを行ってられない時代なんだよね。
 会社が倒産してしまったら、従業員を不幸せにしてしまうかもしれない、路頭に迷わせてしまうかもしれない。
 なんとかせねば、といった使命感を持っているからこそ経営者は、死に物狂いで事業計画を進めて、入ってくる仕事を社員たちと遮二無二こなすわけだ。
 世の中の一部の労働者は、「経営者どもは富を独占してやがる」と、経営者VS労働者といった図式を頭の中で描き出すんだけれど、それは大きな間違いである。
 高額な役員報酬を貰えるようになると、心が健やかになって自然と貢献意識が生まれてくるから、どんなに素行が悪そうに見える経営者でも、ほぼほぼ間違いなく労働者の幸福を考えて、頭をぐりぐりと絞っている。
 そういう善の経営をしている方々を見ていると僕は、「残業を強いる会社は犯罪者以下だ」などという声が上がってしまうのはモヤモヤするし、残業を強いているのではなく、ほとんどの会社は血眼になって作業しないとどうしようもなく、それによってなんとか持っているのが現状なのだ。
 経営者というのは重大な責任の中で働いているのであり、成果を出さなくては全部が終わってしまうのである。

会社を他人事に見て働いている人はいらない

 それゆえに冷徹な目で、メンタルが強く、共に会社という船に乗り続けて、船酔いしたり沈没しそうなときは、お互いに自己犠牲的に助け合って生きられる仲間を見つける必要性があるのだ。
 経営というのは自由でもあって不自由でもあるから、「残業がクソだ」とか「自由な働き方だ」とか「雇われる働き方はしたくない」といったヘラヘラした態度の人たちにいてもらうと困るんだよね。
 だから長時間労働で労働者の性質を見極めるのも、一つの策としてはありなのではないか。
 そうして会社という家族に加わって、みんなで力を合わせて拡大し、お客様や地域を活性化しようという理念を共有して頑張ってくれる人を炙り出すのだ。
「ブラック企業」「残業」といったパワーワードが横行していることによって、一部の悪質な労働者がそれを味方に会社に楯突いて、理不尽な攻撃を仕掛けてくることがある。
 そして彼らみたいなチンピラ社員が辞めた後に、ネットで悪評をばらまいたりして、それを見た他の労働者が、「やっぱ社会って腐ってる」と考え始めてしまう。
 そういうことが積み重なったせいで、善良な会社の経営者までもが割を食っている。
 なのである程度は経営者が、力強い判断で権力を振りかざして、残業させる中でまともな社員かどうかの見極めを図るべきなのではないか。

心の弱者はどうすれば良いのかについて

 精神障害者枠でゆったり働かせて貰えば良い。会社も助成金を貰えるから、連絡なしの遅刻や欠勤もある程度は大目に見てくれる
 それすらも厳しい人は障害年金や生活保護の申請をすれば良い。
 もしもそれ以上を望むのであれば、企業でなく国家に働きかけるしかない。
 僕個人としては、全国民に毎月同額の生活費を渡すベーシックインカムを採用すれば、弱者も含めて安定の中で新しいチャンスを掴むための勉強なりなんなりが出来るから良いと思っているが、政治の動きを見るにまず実現しないだろう。
 なので国家の弱者救済は、障害年金や生活保護といった最低限のセーフティーネットのみということになる。
 それ以上を望むのであれば、無理をして倒れるリスクを分かりながら血の涙を流して勉強するか働くしかない。
 社会というのは等価交換であるから、自分は何も出来ないけれど何か下さい、というのは無理なお願いなのだ。
 それでもなんとかしてくれという場合は、神頼みするしかないよね。

感情的な人間だからこそ、合理的に突破口を探すようにして幸せの感情を噛みしめる

 メンタルの弱い人たちは、現状の仕組みの中で幸せになる方法を模索するか、辛さも人生だと悟るか、政治家にキレ続けるか、のどれかを選ぶことになる。
 現状日本の政治が保守的で、仕組みも今のままであることが予想される以上、どんなに嘆いたところで、本質は弱肉強食の競争という部分は変わらないから、それを前提にどうするか考えて生きるのが利口だ。
 変化率の低いものに対して、いつまでも怒りをぶつけるのは非合理で人生の無駄遣いになる可能性が高いから、弱者が考えるべきは、国や企業がどうのこうのではなく、自分自身がどうすれば今より少しでも良い人生を歩めるかといったことである。
 無理なものは無理ときちんと受け入れないと、一生涯、期待する→失望する→また期待する→また失望するの連続になって、延々と心の傷が増えてゆく。
「合理的に考えることは人間らしくなくて嫌だ」という意見を少し前に聞いたけれど、不合理なことばかりして不幸になることも多いことを忘れてはならない。

能動的な諦念の大切さ

 手が届かないなら諦める、夢物語を見ないようにする、というのもときに必要である。
 社会の成員としての最低限度の義務は持つべきだが、自分自身に対する過剰な義務感は持たない方が良い。
 精神力が弱い人が、「自分はこうならなくちゃならないんだ!」という強い想いを持ち過ぎてしまうと、失望して当然の人生になりやすい。

病んでいるブロガーは、飛んで火に入る夏の虫を実践している

 はてな界隈には病んでいる人が過剰に多い訳だが、彼らを見ていると、仲間たちと慰め合っているようで、実は「べき論」をぶつけ合っていることが多いなと思う。
 はてぶコメントなんかでも、「社会は酷い。こうなるべきなんだ」「心を死ぬ気で修復しなくちゃ」といった義務感が満載である。
 義務感はどうしてもその性質上、期待とセットになってしまう。
 これこれをこうするべき、といった思考はつまり、こうなって欲しいという願望であるから。
 だから弱った人がそうした考えをベースにして生きると、いつまでも心は良くならない。
 そういう人は社会に目を向けすぎないようにブログやツイッターから少し遠ざかる期間を作るなりして、なるべく責任感と期待の魔の手から抜け出して、休養を取る方が良い。
 社会の歪みを正常にしようとする働き掛けは、心の強い者がやるべきなのである。
 それがつまり、ノブレス・オブリージュ、強い者は社会をより良くする義務を履行すべく動かなくてはならないということだ。
 明らかに心が弱いのに、心の傷付く言葉が飛んでくるリスクのある場所で、承認欲求を満たそうとするのは、自業自得とすらいえる。
 なんらかの被害者や弱者には、こうした事実を突きつけちゃいけない、みたいな風潮があるけれど、僕はそれっておかしいと思うよ。
 もっとズバズバ言うところは言ってかないと、ぐちゃぐちゃになるよね、社会。
 他人のレスポンスに傷付いて限界を来しながら、ブログやツイッターをやる選択を自らしておいて、「酷い事言われた。なんて最悪な人たちなの」「○○さんのせいじゃないよ。なんてあの人酷いの!」「最低ですね(はてぶコメント)」といった流れを見ていると、飛んで火に入る夏の虫だなという感想しか浮かばない。
 期待と失望の中で苦しみ合う阿鼻叫喚の、傷の舐め合いなんだよね、それって。
 不合理というか、不幸を呼ぶ行為ばかりしてしまっている人を、ちょくちょく見掛ける。
 社会も個人も、適当にやってりゃお陀仏。
 幸せになるためにも、考えを固定化させずに、常に新たな工夫をしよう。
 ここに書き連ねたことも正解とは限らない、でも不正解とも限らない。
 だから試行錯誤して、自分と、自分を好きになってくれる人が幸せになれるように考え続けて、本気で思ったことを社会や企業や個人に提案しながら、駆け抜けて生きるしかない。
 人間がやれることには限界があるからこそ、限界レベルの提案をなんどもこなして、少しずつ明日の幸福度を高められるように働くのだ。
 そのためには遠慮会釈などしていられない。
 人を批判している暇もない。人を嫌いになっている暇もない。自分を嫌いになっている暇もない。

 仕事で抜きん出ようと思うなら、決まりきった思考の枠の中に閉じこもってはいけない。発想が変わればパフォーマンスも変わる。ドナルド・トランプ

 

シナプスが人格をつくる  脳細胞から自己の総体へ

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『人は前もって組み立てられた既製品ではなく、生命活動によってもろもろが寄せ集められ、貼りあわされているものだ』といった文章が登場するのだが、つまり人間は遺伝子で完璧に全て決まっている訳ではないのだから、生命活動における行動によって、遺伝子的運命を超えた存在になれるということを示唆している。人間にはこのように可変性という希望を持ち合わせた生物なのだから、その幸運に感謝して試行錯誤したいものだ)

 

脳科学は人格を変えられるか?

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『子どもがどんな社会に生きることになるかは、運や偶然では決まらない。その子の感情のスタイルが、その子をとりまく世界を規定する』とあるが、これは大人にも適用されることで、日々、「自分は~が嫌い」「これは~であるべき」といった自己暗示を掛け続けていると、そういう思考を元にしか世界を彩れなくなる。現状が震えるほど幸せならそのままで良いが、もしも不幸を感じているならば、己を日夜マインドコントロールしてしまう癖を辞められるように工夫するべきだろう)