ピピピピピの爽やかな日記帳

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ピピピピピの爽やかな日記帳

親の経営コンサル会社で働く20代後半、社内ニートの話

ピピピピピの爽やかな日記帳

福祉的目線においては、精神病と怠惰をごっちゃにするべき うつ病も甘えも等価

「病んでしまった社員の扱い方はどうしたら良い?」と相談に来るクライアントが、ぎょうさん増え続けている。
 メンヘラ問題というのは、企業経営にとって既に切実な問題だ。
 ここらで一度、僕なりの弱者救済論を書き連ねておくことにした。

端的なまとめ

・精神病に限らず、ダメ人間、穀潰しも一緒に拾い上げるように助けるべき。
・過度なサボりによって社会生活に苦痛が生じている者も、国家が救済すべき対象である。
福祉は感情で提供するものではない
 上下関係も、点数も、強弱もない。
 そこにあるのは、転落した者の尊厳を守るセーフティーネットのみである。
メンヘラと甘ったれをまぜこぜにしろ
 個人の持つ苦痛に点数をつけて、区別・差別してはならない。
 こうした第六感のようなオカルトに頼ると、福祉が瓦解する。
・「サボってダメ人間になっちゃったの? はい生活保護をどうぞ」というスタンスで良い。
 一部の不正受給者のために窓口を狭めて、幸せに生きるに値する生命を蔑ろにしてはならない。
ただの甘えを叩くことが諸悪の根源
 うつ病と甘えをむしろ一緒くたに考えろ
 共同生活に必要不可欠なのは、転落しても最後に受け止めてくれる強固に張られた安全網。
 それに対してあーでもないこーでもない細かな議論は不要。うつ病だろうと甘えだろうと、苦痛に襲撃されている者は、片端から救済する。
 甘えがどうのこうのは感情論。福祉に感情を組み込んだ途端に、差別が発生してしまう。
 ただの甘えでも生活保護を貰える社会にせよ
・資本主義社会であろうと、福祉サービスに競争概念を持ち込むことは許されない
 冷酷な機械のような素早い動きで、ひたすらに暖かい手を差し伸べるのが福祉である。
 それを忘れるとディストピアが誕生してしまう。
生活保護不正受給についての報道は禁止すべき
 生活保護=ダメ人間の吹き溜まり、という社会意識が育まれてしまう。
 裏でこっそり告訴されて、痛い目を見ればそれで十分。
「税金で食っているのだから感謝しろ」という野蛮な考え
 感謝の心は、健康的な生活を送るためにも推奨するが、押し付けてはならない。
 幸せを追求して生きることそのものが人間の権利であり、それは一生剥奪されない。
 むしろ、休むことは社会貢献であることを伝える。
 あなたが休むと、無理をしない社会作り、芸術文化などを推進することになります、と伝え、羽を伸ばして休んだり遊ばせる。
・おまけ、弱者のハイリスク活動・インターネットについて。
 絶望点数社会のようになっているのは、やはり福祉が不安定だから。
 メンヘラがメンヘラ救済制度を歪ませていることがある。
 憎悪感情が吹き出た者がネットにぎょうさんいる。
 精神病者であると名乗った発信者には責任が発生する。情動伝染により、病んでいる読者を不幸にするリスクがあるからだ。
 ノブレスオブリージュを実行出来る強者はほとんど存在しない
 一番悪いのは強者でもなければ弱者でもなく、社会状況である。

うつ病も双極性障害も怠け者も、まとめて助けるべき

「お前は単なるさぼりだろ。働けないとかふざけんな」という人がいるけれど、そもそも日常生活に困難が生まれるほどサボってしまう時点で、それは国家で救済しなくてはならない対象である。
 そもそもが本気で働ける人はごく一部で、どっちかと言えばダラダラしたい人の方が大半な訳だから、なんらかの事情によってぐうたら生きる者が現れるのは仕様が無いことだ。
 精神病者も堕落者も、複合的な要因によって生み出されている。
 なのでどんなバック事情があるにせよ、生計を営めない者は助けてしかるべきだ。
 働けないというのは、目に見えぬ自然災害に見舞われたようなものだから、外面だけの評価、「頑張っているか? 頑張っていないか?」など情動優先の評価をすることは避けねばならない

メンヘラと甘ったれをごちゃ混ぜにするくらいでちょうど良い

 大事なのはセーフティーネットを殊更に拡大し、余すことなく弱った日本人全員をキャッチし、ヒーリングを施し、リバイバルさせることだ。
「私の体内にはごっそり病みが浮かんでいます。私の勝ちです。私を評価してください!」と騒ぎ立てる絶望大食い競争をする必要はまったくない。
 外からの観察が不可能な物事を評価しようとすると、それはただの創作活動になってしまう。
精神科医は、文学者と揶揄されてしまうことがありますねぇ」と、会社関係で知り合った先生が笑って口にしていたことがあるのだけれど、それほど心の探究は難解なのだ。
 というかどんな天才カウンセラーでも、完全な熟知は不可能である。そして福祉的目線で人々を見る際には、想像力を使用してはならない
「あなたのうつ病は62点だと思います。それ相応の保証金をお受け取り下さい」「あなたは甘ちゃんのきらいがありますので、14点です。お引き取り下さい」
 こうした超能力遊びのような真似がまかり通ってしまうと、福祉サービスが瓦解する。

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「サボり続けたまま中年になって未来を失った? ふ~ん。人生は大変だよね。ゆっくりしてくださいね。はい生活保護。せっかくの人生を楽しんで下さい」

 これで良いではないか。こうした対応に反対する者がいるとしたら、それこそ人類の尊厳を踏みにじる者たちであるから、そうした人々の主張は無視するべきだ。
 一部、不正者が出現するリスクを防ぐために、守られるべき善良な民間人が餓死するのは本末転倒だ。
 そうならないためにも、働くのが嫌いという理由だけでダラダラしている元気そうな人に対しても、うつ病人を見るのと同じ目を向ける必要がある。
 たとえばバイトのバックレを辞められない人、上司に常時逆らってクビになり続けている人なども、精神病者と同じように何らかの辛みに歯を食いしばって生きているものだ。
 本人にしか分からない気持ち、本人だけが抱える問題というのがあるのだから、外から見て、「あなたはあなたより楽です」などと決めるのは、転んだ爺さんの顔を踏んで歩くような残忍な行為である。

人間が共同生活する中で不可欠なのは、最低限の生活を保障する機能が確実に動くこと

「うつ病と甘えを一緒にするな」だとか、「不正に生活保護を受給させるな」だとか、そういう正義を働かせていると、セーフティーネットが崩壊し、限界のない生き地獄生殺し社会が到来してしまいかねない。
 それではまるで地球が、無実の者たちの泣き叫びと震えが止まらぬ、丸形監獄feat. 西野カナになってしまう。
 脱獄を目指し泣き、脱獄を目指し喚き、脱獄を目指し狂い……女神様に会いたくて震える。
 確かに心情としては、悪そうな外人受給者や、遊び過ぎて疲れた受給者や、堕落が大好き受給者など、一見そう評したくなる人々の存在を確認してしまうと、「血税なんちゃらかんちゃらぁ~~~~★」などと怒りの魔法で別な惑星まで吹き飛ばしたくなることもあるだろう。
 しかし、許さずの態度は己にも跳ね返ってくる。
「あんなんで生活保護もらえるのけぇ? 人間の屑だべぇなぁ」と受給者をけちょんけちょんに、月に代わってお仕置きしようとする者がいるけれど、そうしたアッパーカットは自分にも返って来て、顎がいつもより割れてしまう。
 そんなアンタッチャブルな言葉の放出を継続していると、「うつ病? 診断されやすくなった時代に生まれてよかったね? 古代の病理学はわやくちゃだったんだよ? 知識が体系化された上に綺麗な診断書を貰ってお休みを頂ける時代を生きる人類は羨ましいですね?」といった言葉を冷酷な笑いとともに投げつけられる、冷笑主義物語がスタートするだろう。
 山に花が咲き、柴犬が田んぼを駆け回るような心優しい世界を築くべきだ。
 ゆえに福祉的目線だけは、常に女神様のように優しくあらねばならない。
 ビジネスに関しては資本主義がベースにあるから、鬼に徹するのは許されるし、「結果を出せない奴はイヌ、サル、キジ以下だ。きび団子を食って帰れ」という発想も、最低限の人権を守った上であれば致し方ないものだ。
 しかし福祉にそうした競争を持ち込むことは、ただの一秒も許されない。
 誰かに向けた鋭利な刃物が、自分にも向けられるのは道理。部下に屈辱を与えたら、土下座という屈辱が返ってくる物語が半沢直樹。「やられたらやり返す、倍返しだ!」という原理は、一般社会にも適用されるものである。
 うつ病も、双極性障害も、うつ病になりたい人も、サボりたい人も、ニートも、引きこもりも、どこの誰であれ、社会生活に悪影響が出て極寒の絶望で凍えているのならば、差別も区別もなく、救われるべき辛み人、なのだ。

ただの甘えを叩くことが諸悪の根源 逆に甘えもうつ病も一緒にするべき

「サボっているからダメ人間なんだよ」という論法で責めるのが許されるなら、「お前が性格悪くて人に嫌われることによって、それによる心身のダメージでうつ病になったんだから、お前の精神病はお前の愚かさの問題だろ。人のせいにすんな。尻拭いしろ」という暴論も次々に生まれてしまう。
 繰り返すが、福祉的な目線はどこまでも女神的であらねばならない。
 それは引きこもりであろうとニートであろうと同じことだ。
 過ぎた感情論で、彼らを叩いてしまうのは、
お前が交通事故にあったのは、きちんと運動神経を高めるトレーニングをしなかったお前の怠惰さが悪いのだから、障害年金は国に返還しろよ
 と密やかに裏側から囁いているのと変わらぬことになる。
 福祉に感情を組み込んだ瞬間に、差別が発生するのだ。
 であるから、甘えもうつ病もまったく等価に捉え、どちらも救出しなくてはならない対象として見る必要がある。

ただの甘えでも生活保護を貰える社会にすべき

 大増税して大半を社会福祉に回すなど、いくらでも方策はあるのだし、経済発展などよりも、人類の尊厳を守り抜くというのが、国家が何を捨てでもやらなくてはならない義務なのだ。
 ニート、引きこもり、双極性障害、躁鬱病、境界性人格障害、サイコパスなど、名称が違うだけで、辛いという本質部分はまったく変わりない。
 一人の人間が社会的な生活を送る上で、過度な弊害を生じさせる特徴を持っているのであれば、それは耐え難き苦痛を発生させるリスキーな生き方をせざるを得なくなっているということだから、国家単位で無条件に救って当然だ。
 パチンコ依存症で遊び暮らして落ちぶれた者でも、努力に努力を重ねて転落してしまった者でも、将来的に忍びない苦痛に心身を蝕まれるようになってしまうのであれば、バックボーンなど一切合切気にせず、まったく同じ対応で掬い上げるべきだ。

福祉においては差別も区別も許されない 苦痛という一点のみに絞った判断が必要

「頑張って生きてきた」などの自己評価は、公務の邪魔にすらなってしまう。
 日本社会は競争必至の資本主義だが、福祉サービスに限っては競争を適用してはならない。
 そこを忘れると、最も重大な憲法違反を犯すことになり、人間の尊厳を根こそぎ奪う社会――ディストピアが誕生してしまう。
 会社単位、個人単位であれば、それぞれの価値観によって弱者をどう扱おうとある一定ラインまでは許されるものだが、福祉においては無条件の愛の提供が成されるべきで、どのような社会状況であれ弱者の排斥は許されない
 ここでいう弱者とは誰を指しているのかといえば、病気の診断を受けていない怠惰なニートや、社会不安障害で働くことが困難になっている病者など、社会通念を逸脱した無気力さ、辛さを日増しに強めている、つまり苦痛を体内で飼って暮らしている人々のことだ。
 たとえ昼に起きてゲームしてカップラーメンを食べて寝るような暮らしをしている努力なき存在であれ、その者が得も言われぬ苦痛を抱えているのだとしたら、病歴数十年の精神病患者などと同列に見るべきである。
 ニートの悲劇、チンピラの悲劇、引きこもりの悲劇、新型うつ病の悲劇、パニック障害の悲劇、アルコール依存症の悲劇などを、明確に数値化することは出来ないのだから、点数順に並べて、上から高濃度のサービスを手渡すようなことは無理だ。

生活保護不正受給の報道は一切いらない

 見えないところで刑罰を食らえばそれで十分である。
 そんなものを報道してしまうと、生活保護=どうしようもない人間の吹き溜まり、という集合知が完成する。そうした社会的不意義な報道は辞めるべきだ。
 そして、「生活保護者は感謝しろ! 生活保護者は遊ぶな!」というのは、不正受給者にも勝る、悪質かつ野蛮な考え方である。
 健康的な方向からいうと、感謝は推奨するけれど、そんな些末なことにこだわり押し付けるのはナンセンスだ。
 むしろ、そういう弱者には、「社会で生きるのは人間が持つ究極の権利です。引け目を感じる必要はありません。心置きなく遊んで下さい。サボって下さい。昼まで寝て下さい。あなたが働かないでゆっくりすることで、社会に生きる人々のハードルが低下し、息苦しさが減るので、むしろあなたがきちんと休んで遊ぶのは、働くのと変わらないくらいの社会貢献なのですよ。それだけでなく芸術的価値の高い作品は莫大な自由時間から生まれていることもありますから、あなたのような方が増えるということは、それだけ文化的に日本が進化する可能性が増すということなので、二重の意味で貢献しているのです。ですから後ろめたさを感じずにゆっくり休んで好きなように生きて下さい。資本主義が強烈に適用される範囲ではあなたは通用しなかったのかもしれません。しかし、戦えるエリアはそこだけではないのです。いくらでも休んで、じっくり考えて見るのも良いですし、何も考えずゆったり暮らす自由な幸せを享受しても良いのです。一人の人間の命の在り方に、固定概念は不要なのです」と伝え、羽を伸ばして幸福を追求する生き方の後押しをしてあげるべきである。

雑記・弱者のハイリスク活動について

 今の世の中は、絶望点数社会みたいなもので、「私は苦痛に長年耐えてきたので、他の人よりも苦痛を熟知しています。苦痛絶対主義者です」と暗に匂わせる人が増えている印象があるのだが、これはやはり福祉が安定していないからなのである。
 マズローの欲求五段階説ではないが、人は『人はパンのみにて生くる者に非ず』だから、ただ生存するだけでなく、居場所や愛を求め、それから承認されたり、自己実現を達成することを一つずつ目指して、必死に藻掻く生き物だ。
 そのため、本来人間が受け取るべき喜びのどれかが過剰に欠乏してしまうと、人は憎悪という病状が悪化し、耐え難き怒りによって自分の生活すらままならなくなってしまう。
 この僕も率直な意見を書いているから、病んでいる人だったりを激怒させることがあるのだが、その際には自分が悪かったと思うようにしているし、相手に一切の非がないと考えるようにもしている。
 こちらはどうしても訴えたいことがあるから、方針や物言いを変更するつもりは一切ないのだが、精神的な部分では相手の気持ちを理解するようにして上げないと、ただの押しつけがましい、文字うるさい輩に成り下がってしまうからだ。
 そもそも病んでいて誰かを憎悪しやすくなったり、不快感を持ちやすくなったりするのは病状であるから、責めるわけにも行かないし、そうした状況の改善は病んでいる人たち自身で頑張って貰う他ない。
 そして彼らにいくら嫌われたとしても、僕の方からそういう人々を嫌うことはない。
 彼らの言動などに対する意見はズバっと口にはするが、その人その者をどうしようもない軽蔑すべき人と貶めるような見方はしない。
 なぜなら、僕にも理不尽な怒り、憎悪感情を持って他人を延々と追い詰めたくなる時期があるから気持ちが分かるし、そもそも人間というのはそういう愚かな生物であるからだ。
 落ち着いてきた頃にまた分かり合えるというパターンがあるし、ブログだとかツイッターだとかは企業活動ではないから、理屈に合っているだとか、そういう筋道通りの考え方だけでやる必要はないものである。
 しかしそうではありながらも、言うべきことは言うべきだから、誰の怒りを買おうと意見のぶん回しは辞めないつもりだ。
 物事の見方の表明というのはいくらだってやって良いものであるし、それに苛立ち主張したいことがあるのであれば、病んでいる人々以外は、ただ暴言を残すのではなく反対意見を掲げるべきだ。

 メンヘラがメンヘラ救済制度を歪ませていることがいくらでもある。
 たとえば生活保護不正受給者でなく、生活保護という概念自体をバッシングする者がたまにいるけれど、それは福祉――女神破壊の行為だから、人類の命を切り刻むような悪質なことだ。
 そういう人たちは、間接的な不法者ともいえる。
 しかもこうした行為を、近い将来、福祉のお世話になりそうな弱った人々が主張していることがある。
 それはきっと、世間が白い目を向けている生活保護を支給して貰うのは、己のプライドが許さないから、声高に罵倒することで、自分自身の尻を叩いて、「絶対に貰ってたまるもんか」と喝入れをしているのだ。
 こうしたちっちゃいことの積み重なりで、社会制度がぐらついてしまうものだと思う。

 本格的に病んでいる人は、ネットから遠ざかるべき
 メンヘラに対する偏見論があったとしても、それは一人の意見なのだから仕方ない。
 それが人間の集う空間というものだ。
 それに耐えられないのなら、回線切って薬飲んで寝るべき。
 ブログなどで発信するということは、叩かれることも織り込み済みで行うべきだ。
「精神病者は怠惰を取り込んだ日々を送っているのに、頑張っていると賞賛されて羨ましい」
 こうした心ない意見を口にする人がいるのは防ぎようがなく、しかもそうした苦言を呈している人自身がセロトニン不足でおかしくなっている可能性もあるのだから、個人対個人の争いは自然発生的なもので致し方ないと思う他ない。
 他人が語る話に対して、尋常でなく敏感になっているのは、まず間違いなく余裕がなくなっているということだから、情報断捨離をするべきだ。
 憎悪という病状が出ている患者が、インターネットにごろごろいる。
 辛い思いをしながらも感情をコントロール出来ている人であれば、精神病者だからこそ日頃感じている物事を語るのは有意義なことであるし、誰かのためになる素晴らしい行為なんだけれど、そうした状況にない病状が酷い人は、ネット回線を切らないとまずいことになるのではないか。
 なぜなら情動伝染により人を不幸せにするから。
 一般的な雑記ブログなどでも、陰々滅々たる記事を書いている人もいるし、本屋には後味の悪い書籍だってある訳だが、それとはまったく別物の話だ。
 どういうことかというと、精神病ブロガーとして名乗って活動をしている限り、読者の大半は人生に絶望していたり、もう少しで病んでしまいそうだったり、救いを求めてやって来る疲れ切った人ばかりだからだ。
 それなのに感情の支配がままならず、憎悪が並んだ記事を見せつけてしまったら、精神ダメージだけを与えて終わってしまう可能性が出て来る。
 これでは、絶望を売りつけて広告料を貰ったことになる。
 なのでたとえ精神病者であれ、そう名乗ってステージに立ったのなら、最低限の義務が生じてくる。
 適当になんでも書きますというブロガーとは、一線を画した存在であらねばならないことを忘れてはならない。
 それが出来ないのであれば、精神病というプロフィールは外して、一般人としての絶望日記とすれば良い。
 心が壊れそうな読者を集めておいて、憎悪に近いような文章を書くのは避けるべきだ。
 精神病を名乗っているということは、それ相応の責任が発生する。
 個人ブログなんだからなんでも書いて良いという投げ捨ての発想をするのは、大変危険である。
 やっていることがただの、痛み分けになってしまうと、書き手も読み手も疲弊して共倒れになってしまう。

 そもそも僕は、精神病者と健常者の苦痛を分けて考える人があまり好きじゃなくて、それほど傲慢なことはないと思っている。
 もうその時点で特権意識を持っていて、「私は苦痛の中で頑張ってきたんですよ? あなたとは違うんです。健常者は語らないで下さい」と線引きしたも同じだから、病気の中に引きこもったようなものだ。
「健常者は辛い思いをしていないと思っているの?」「その健常者って精神病者の可能性はないの?」「苦痛の量に応じて施しが与えられるべきなの?」
 特権意識というのは病状の一つであるから、己の苦痛にプライドを持っている人は、精神病が悪化していると考えられるため、ゆっくり休んだ方が良いだろう。

 そして問題の一つとして、弱者以外は全員強者のように見てしまう人がいる。
 たとえば会社経営者と聞くと、即座に社会的強者という認識をする者が沢山いるけれど、そんな存在はごく一部で、血の滲むような努力でなんとかぎりぎり持っている場合がほとんどだ。
 であるから合理主義者に見えるような社長なのに、寺でお守りを貰う、お札を下向きに入れる、トイレの便座を降ろす、など徹底的なまでに縁起を担ぐ人が沢山いる。
 なぜこうして神や仏に縋るかといえば、それだけ極大の不安の中で生き延びようと藻掻くからだ。
 つまり、精神病者だから健常者より辛いなんて考えは全くの論外であり、みんな辛い中で頑張っていると考えてこそ、共同生活は成り立つのである。
 人の苦痛を数値化したかのように、比較して語るのはろくでもない行為だ。
 とはいっても、そういう人々の偏狭的な考えや、憎悪感情などはどれも病状であり、その人そのものが悪いのでは決してないから、やはり国家的に福祉を充実させなくてはならない。
 そのために国民に増税という痛みを我慢して貰って、福祉予算を潤沢にすべき。
 強者の責任――ノブレスオブリージュが流行り言葉になっているけれど、正直なところ、それを実行出来る程の強者がまずそこまでいない。
 先ほど書いたように、経営者=強者ではなく、経営者が真っ先に長時間働いてもぎりぎりなんとか会社が回る程度ということも多く、本当に余裕がないのである。
 ノブレスオブリージュは、シリコンバレーで莫大な利益を上げているような企業がやるべきものであって、一般的な人々には難しい。
 頑張っても小規模にしかやれない。
 国家単位の梃子入れをしないと、弱者は滅亡してしまう。
 だから誰が悪いとかじゃなくて、日本を取り巻く環境に不備があり、一番悪いのは状況ということになる。
 余裕がないゆえに、弱者対弱者で殴り合うなどして、刹那的な満足感を得ているのが今の社会なのではないか。
 ハルマゲドンの戦いが始まろうとしている――

 

完全なる人間―魂のめざすもの

完全なる人間―魂のめざすもの

 

(『死ぬほどの価値のあるものはなにもないという価値の空白期間におかれている。人は求めて得られないものを、やむことなく求めるのである』『価値体系のない人間の状態は、われわれの知るところによると、精神病的である』とあるように、やはり人はどんな状況下であれ学ぶことによって、自らの希望を自己生成しなくては、いつまでも絶望から抜け出せない。体系的に自分の人生を豊かにするであろう何かを少しずつでも学び、心の空白を喜びの材料で埋めるために日々を生きるのが大切だ。こうした小さな自己修正活動を続けることによって、人は絶望を克服出来るかもしれない。それをしないと、意味があるのかないのか分からないものにただ縋るだけの、マインドコントロールされた人生になってしまいかねない。少しずつでも、一歩ずつでもそこから抜けられるように経験や知識を得て、希望獲得のための知恵を生じさせよう。文字が小さい上にページ数は多いがとても読んでいて楽しい本)

 

無気力なのにはワケがある―心理学が導く克服のヒント (NHK出版新書 416)

無気力なのにはワケがある―心理学が導く克服のヒント (NHK出版新書 416)

 

(新書なので高速読みすればすぐに読破出来るし、心が弱ったときにその状況から抜け出す解決法を導く手助けをしてくれる本だ。メンタルが強い者の特徴として、『現実を必ずしも客観的に見ない傾向、ある意味、歪んだ評価をする傾向が、われわれを精神的なダメージから守っている可能性を示唆している』と一つの説が書かれているのだが、これは確かにそうであると思った。運動や瞑想を病んでいる人に勧めるのは、それをすることで気分が高揚して、たとえ絶望の渦中でも走っている間などは超越的、超自然的な世界にいるような気分になれる可能性が高く、それを継続することで、人生をありのままに直視するだけでなく、幸福になるために色眼鏡をあえて掛けてしまうという練習が出来るからなのではないかと考えさせられた。楽しい人生とはそうやって能動的に築き上げるものなのかもしれない)