ピピピピピの爽やかな日記帳

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ピピピピピの爽やかな日記帳

親の経営コンサル会社で働く20代後半、社内ニートの話

ピピピピピの爽やかな日記帳

差別とは青春であり愛 恋愛も結婚も差別感情により成り立っている

差別感情こそが愛の源泉

 人間は排他の精神を持っているからこそ、一人の思い人に対して純愛を貫ける。
 差別とは紛う事なき愛であり、我々は差別的動物ゆえに恋に落ちるのだ。
 一般的に青春と呼ばれる、中学や高校の時代を思い出せばこの論に取っつきやすくなると思うが、若かりしあの日の自分を振り返れば、「あいつキモ」「ハゲの癖に偉そうにすんなよ」「豚っ鼻が、養豚場経由の裏入学か? 勉学豚が焼き肉みてぇにやる気燃やしてんじゃねぇぞ!」などと、心ない考えを抱いたことがある人の方が多数派だと分かるはずである。

青春を謳歌するということは、差別感情を強めるということ

 そして大衆的な意見として、青春時代ほど、情熱的な恋愛に耽溺しやすいといわれている。
 なぜそこまで熱量を剥き出しに出来るかの理由としてはやはり、派手に嫌いな存在を排除し、嫌いな事柄を明確にすることで、最後に残った自分の理想だけを愛するという、直線式のいちゃラブ陶酔が容易に達成可能だからと思われる。
 大人になってしまうと、他の全てを投げ出して首ったけになるような恋愛がしにくくなったと実感している人が夥しくいるのは、良識を学ぶことで差別意識を薄れさせてしまっているからなのである。
 青い差別の春に恋の花が、あちらこちらに咲き乱れるのは、やはり凄惨なレベルで差別をする人だらけだのためだ。

愛は差別だ 僕は差別する

 小説家・舞城王太郎の『好き好き大好き超愛してる。』 の中に、「愛は祈りだ。僕は祈る」という名文がある訳だが、ここでいう祈りというのは差別のことであり、それを証明するように、「それぞれの好きな人たちに囲まれて楽しく暮らしてほしい。最大の幸福が空から皆に降り注ぐといい」というセリフも登場するのだが、詰まるところこれは、愛は差別であるがゆえに、みんなで手を取り合って幸福を流し合うようなことは不可能だから、それぞれの好きな人と身を寄せ合って、幸せが舞い降りるのを待とうということなのだと思う。
 差別思考こそが愛の源泉なのだ。
 差別なきところに愛はない。
 だから一概に、差別そのものが悪いこととはいえない。
 差別感情を叫び散らすヘイトスピーチ的なのは絶対に良くないけれど、心の中で思う分には自分の生き方、自分の希望を見定めるために重要で、必須のことだと思われる。
 そうして差別感情を煮込んでゆくと、ぽかりんころりんっ! とかわいらしいサウンドエフェクトを従えた愛が飛び出してくる。

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社会貢献としての差別

 感覚的な話になるけれど、恋愛体質の人って、言葉の強弱に違いはあれど差別的な人がぎょうさんいる。
「あいつ鬼キモくね? 猿みたいにバカだし、犬みたいにクサいし、キジみたいに目が点じゃん。太もも汚いし、太郎って名前がダサい。昔々のジジイとババアの融合体みたいな顔してね? 最高かよ!」
 といったような皮肉まで詰め込んだ差別コメントを、今この時間、北海道を襲っている雪吹雪のように口から猛烈に吐き出している瞬間に遭遇して、「嗚呼、雪かきに2時間くらい掛かりそうだし、昨日まで気温がそこそこ高かったせいでブラックバーンが所々にあってリスキーな作業になりそうだぜ!」と、スコップを手に持った経験は誰でもあるだろう。
 でもそういう子ほど、すぐに一目惚れしてしまい、メロメロになって、「えへへっへへっぇぇ~~~~幸せっっ!」と顔を赤らめながら、ルンルン気分で街中を踊るように駆け抜け、見ている人を多幸感の渦に巻き込んだりする。
 そういう己惚れの笑顔一つで、地球上に喜びの感情が増えることもあるのだ。
 であるから、差別=人を不幸せにする発想、などと短絡反応を起こしてしまうのは良くない。
 無論、体が不自由な人を笑いものにしたり、障害者を言葉でいじめ抜いたりするのは、人間のクズのやることであり、厳罰に処するべきだとは思うが、心の中で好悪の明確化を図ったり、合う合わないを直感的に決めつけてしまうのは、悪いことではない。
 心の底から嫌悪している存在が集う場所に、すたこらすたこら歩み寄って、ゴマすりパーティーを催す方が不誠実であり、人間の尊厳を守るために差別が必要なのである。
 男同士で手を取り合っている光景を見て、気色悪いと考えてしまう人がいるのだってしょうがないことであるし、そうした本音に蓋をする――抑圧してしまう方が危うくて、そんなことをすると匿名のネット社会などで、蓄積していたもやもやを晴らすために、直接的な差別攻撃に打って出てしまう可能性が高い。
 差別的な考えが悪いという風潮を強め過ぎると、差別的な暴言が増えるのではないか。
 理屈抜きに、嫌い、気持ち悪い、と思うことがあるのは人間である以上、許されるべきだ。
 その上で、「自分の価値観からすると不快な相手ではあるけれど、人は助け合って生きなきゃいけないんだから、あの人たちも幸せになってくれると良いな」と考える方が健康だと思う。
 無理な我慢は逆効果を生む。
 差別しながら人間の尊厳を忘れないという、愛憎こもごもの姿勢を取ることは可能であるはずだ。
 抑圧は暴発の準備みたいなもので、明け透けに好き嫌いを表明するよりよっぽどまずいことになる確立が高い。
 そうしたリスク因子を取り除いてくれるのが、差別なのだ。
 どう考えても差別は愛である。

 

他人を引きずりおろすのに必死な人 (SB新書)

他人を引きずりおろすのに必死な人 (SB新書)

 

(『関係性攻撃』『見下され不安』『シャーデンフロイデ』など専門用語が登場する、心理学的読み物で、人の心の闇を気楽に知るには適した本だと思う。
『失業すると家族への暴力6倍』『抑うつ傾向のある人物は、相手に敵意をもつ傾向が強いこともさまざまな心理学的研究によって示されている』と書かれていたように、人は愚かな生物なんだよね。痛み分けをして、相対的に自分をマシにしようと藻掻くのである。そして日本社会は今や、年収200万円以下の人間が1000万人を超えていて、非正規労働者も2000万人ほどいるし、こうした金銭的な問題だけでなく、一度も彼女が出来たことがないだとか、様々な絶望を背負い込んでいるがために、堂々と人生を闊歩出来ない人が増えている。その結果が、シャーデンフロイデ(他人の不幸は蜜の味)に沿った引きずり下ろしの社会の完成に繋がってしまったのかもしれないなと、読んでいて考えた。だから絶望社会にいる人間は、抑圧のような心に負担の掛かることばかりしていると、絶対にどこかで破綻を来すんだよね。自分の愚かさを真に認めてしまうのが大切。それが出来ないうちは、憎悪に囚われて心がすり減る日々しか送れない。自分と他人のためにどんどん差別しよう!