ピピピピピの爽やかな日記帳

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ピピピピピの爽やかな日記帳

親の経営コンサル会社で働く20代後半、社内ニートの話

ピピピピピの爽やかな日記帳

傲慢とメンヘラ 精神病を武器に人を傷つける、ごく一部の自己中心主義者について

※追記 裏でトークをして和解しますたっ!! やはり敵対している状態というのは、お互いに相手を妄想の中で嫌な存在として巨大化させてしまうため、真実以上の恐怖や怒りを抱いてしまいがちだけれど、実際に本音をぶつけ合うと、見えてくるものがあるなと思った。コミュニケーションの不足が原因。それを痛感しますたっ!! 相手の方としっかり話したら、どう考えても良い人だった。遠距離で憎み合っているのは良くない……! いがみ合うくらいなら急接近して素直な言葉をぶつけ合おう! それからじゃないと相手が本当に嫌な人かは分からない。勉強になりますたっっ!!

病んでいる人に「○ね」と、間接的に言われてしまった

 DMなどでメッセージが届いた訳ではないのだが、文脈的に僕を指していることは、容易に想像出来る文章が流れてきたのだ。
 敵愾心がたっぷりと含まれた、伏せ字なしの「○ね」であった。
 その人は普段、「少しでも皆さんのためになれば良いと思っています」というスタンスで、精神病についての持論を発信している。
 言語感覚とかモラル観は人それぞれだから、その鋭利な言葉を使うなという命令は出せないけれど、病んでいる読者を抱え、それによって収益も得ている立場の人が、エゴイスティックに憎悪を撒き散らして良いのだろうか。
 絶対不変の正しさは存在しないから、疑問符を突きつけることしか出来ないが、少なくとも褒められたことじゃないのは、明々白々たる事実だ。
 この人の主張を読み解くと、「ピピピは金持ちの実家に産み落とされて、努力なしの優雅な満ち足りた生活という幸運に恵まれながら、ネットで歯に衣着せぬ物言いの記事を投稿して、収益まで奪い取っている。人間性も酷い。大嫌いだ。品性下劣で獣にも劣る、下等なブロガー。どうか不幸になってください。真剣に願い続けています。あなたの消滅を心より楽しみにしています」ということになる。
 これはトッピング過剰の話じゃなくて、その人の過去ログをさらっと読んでみたら、これに類することが仰々しく存在していた。
「健常者の分際で」という怒りが滲み出るものであった。
 これは他人の表層だけを嘲るように観察して、短絡的に評価しないと出て来ない言葉だ。
 余談になるが僕は、争いの絶えない家庭に生まれた。
 その結果、父も母も軽度ではあるがうつ病になり、妹も社会不安障害に苦しんでいたことがあった。
 この僕も、借金が100万円以上あって、家族とも縁切り状態で、一畳半の窓なし違法建築物件に住んでいた頃に、双極性障害と認定されたことがあった。
 家庭内に、常軌を逸した憎み合いがあり、皿の割れる音、所在不明の泣き声、怒鳴り散らす隣人のノック音が、冷気を伴って響き渡っていた。
 それに加えて、父親が務めていた会社の乗っ取り事件や、裁判沙汰なんてのが雪崩れ込んできて、みんなが疲弊し、幽体離脱したようにふわふわと心なく暮らすようにして、月日が流れた。
 このようにクレイジーな環境であったから、精神病だと診断されたのだと思うし、今となっては家族の誰もが、普通の人よりも心身に恵まれているし、経済的にも悪くないし、一般家庭よりも仲が良いと思えるレベルに達した。
 こうした経験から僕が悟ったのは、健常者とか精神病者とか、そんな括りは意味がないということだ。
 全ての人間は努力している。全ての人間は頑張っている。全ての人間は尊く生きている
 辛いのはあなたたちだけじゃない、涼しい顔で生きているような人々も、内心にストレスを抱えながら、豊かな人生を送ろうと必死に藻掻いている。

精神病を盾にする人の小賢しさについて

 類は友を呼ぶよろしく似た者が集まって、「分かる。あの人、消されちゃえば良いのに」と陰鬱に僕を言い腐している会話も、この目で確認出来た。
 そして続けざまに、「病みに悩んでいる人のことを何も知らない人間の癖に! 自分たちばかり得をして! 私たちの辛さも知らないで!」と声を張り上げていた。
 過激な物言いを仲間に咎められることもなく、不健康な自己正当化をひたすらに続ける。
「私は病んでいるんです。無理言わないで下さい。倒れたらどう責任を取るつもりですか?」と自分を守りつつ、他人に対して邪悪な言葉を放つ。
 そうやって病んでいることを叫ばれてしまうと、直接的な批判や反論を口にすることは出来やしない。
 たとえ明確な悪意がそこにあったとしても、相手が精神病者の場合、言い返すことはタブー視されているこの世界。
 真っ当な議論も許されず、「相手の憎悪は病状なのだ……」と泣き寝入りするしかない。
 あの人たちの言い分はこうだ。
「私は憎悪に塗れている。理不尽な攻撃もする。でも精神病のせい。悪いのは私じゃない。私は優しい人間。私は頑張っている。こんな私の体験談を投稿しよう。みんなを幸せにするために……」
 病んでいる人は、ちょっとやそっとの攻撃は許されてしまうらしい。
「健常者は何も語るな。心を壊した経験もない癖に。お前は楽な人生を生きている」
 このような発言も発見した。
 きっとあの人たちは、これについて追求しても、「心が苦しかったから……。嫉妬や憎しみも病状の内なんだよ。なんで同情してくれないの……」と話し合いを許さない態度を取るのだろう。
 偏狭的な正義を持った人々を集めたセクトを形成して、一般人をはね除ける主張をしながら、「弱者を労れ!」と激している。
 なぜこうも、健常者と精神病者を分離させて考えるのだろう?
 あの人たちは、相互扶助という、ソーシャルに生きる人間の基本基盤を蔑ろにしている。

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「自分は道徳心のある善人だ」と思い込んでいる人の危険性について

 極限の道徳は、暴力に近い。
 なぜなら道徳は明文化もされていない曖昧模糊としたものであるがゆえに、人それぞれ好みの正義を持つことが可能であり、つまり道徳的な考え方も、一歩間違えば過激派のカルトに似てくるからだ。
 そのため、「私は道徳心もありますし、心優しい人間です」という自己評価を口に出来る人は、悪人と表裏一体。
 絶対的な悪人の定義はないけれども、取り急ぎの持論を言うなら、自分とはまったく別物の正義を持っている頑固な人ということになる。
 詰まるところ、正義か悪かはどの立場に立っているかで決定されるということだ。
 究極的に自分が善人であると信じて疑わない人は、何をしでかすか分からない危険性がある。
「道徳という名の、絶大なる神様に許されている私」という自己評価をするようになってしまうから、善行だと思って悪行に手を出してしまう。
 加えて、『道徳心が低いと感じると、逆に利他的になる(中略)利他的な行動をして自己像を〝浄化〟しようとすると考えられる。しかし少し自分のイメージがよくなると、よいことをしようという気持ちは減ってしまう*1』とあるように、根拠もなく自分は正義の人間だ、と自己暗示を掛け続けて傲慢になってしまうと、全ての行為が正しいと考えるようになってしまい、罪悪感も薄れるから、堂々と誰かに取って迷惑なことを連発するようになる。
 そもそも自分が優しいと主張出来るということは、身勝手に他人を評価して、比較したということであるから、少なかれ他人を貶めている。
 人のバッグボーンを想像することもなく、外面的な目に見える行動のみで勝手に点数をつけ、私の方が上だと判断したということだ。
 ゆえに悪人とは、己が善人だと思い込む者のことである。

 

ものぐさ精神分析 (中公文庫)

ものぐさ精神分析 (中公文庫)

 

(この本はなんども読んだ。一番好きかもしれない。『セルフ・イメージと、客観的な姿とは、逆比例の関係にある。早い話が、傲慢な者ほど自分を謙虚だと思っており、謙虚な者は自分を傲慢だと思っている。被害者意識が強い者ほど、周りの人たちにとっては恐ろしい加害者となる』とあるように、やはり己を道徳的で善人と考えている人は、自分絶対主義者となり、勝手に生じさせた正しさに固執するから、頑固頭の厄介な存在になりやすい。「根本的な帰属の誤り」という考えも世の中にはあるが、これは他人の起こした結果は、その人の性質によるものであると考え、原因の背景を考えないことをいうんだけれど、傲慢になっている人は、この傾向が凄まじい。常に自分を省みることをしないと、人はろくでもないチンピラに成り下がるんだよね。『「おべんちゃらを言い」、「人を騙す側に周り」「うまく立ち回って」いればもっとうまい汁を吸うことができたはずなのに、自分はそういうことができないのでいつも損ばかりしているということが暗黙の前提になっている(中略)要するに、自己嫌悪ほど卑劣なものはない、というのがわたしの結論である』というのも正鵠を射ている話で、この著者は強烈に人間心理の急所を貫きまくっている。たぶん病んでいる真っ最中の人は、この本とこの著者を、猛烈に嫌悪するだろうけれど、こうした自分の中の拭いがたき愚かさも含めて、人間という生命なんだ、という結論を導き出せるようにならなければ、薄弱なのに捨てられない歪んだ正義感を持ち続けてしまい、自他共に不幸になってゆく。みんな愚かなんだよ。そこを理解すれば、自分を精神病という盾で守りながら、他者を害することはなくなるはずだ。人の脳神経には可逆性があるから、延々と憎悪を膨らませて、それを攻撃に転化させる日々を送っていたら、チンピラの脳髄が完成してしまうんだよね。正義を追求して人を殴りまくり、その結果が極悪人とは皮肉。でも逆をいえば、変化可能な脳の性質を考えたら、愚かさも運命だと考えて柔軟に生きられるように努力すれば、新しい人生を送れる可能性もあるということだ)

 

やってのける ~意志力を使わずに自分を動かす~

やってのける ~意志力を使わずに自分を動かす~

 

『自信家ほど誘惑に負ける』とあるが、これはこの本に限らず言われていることで、最悪の事態を想定しなくなると、実際にそうした状況に陥った際に、どう動くべきかが分からなくなってしまい、平気で洗脳されたりしてしまうということだ。自分だけは大丈夫、という思考が最も危険なのである。薬物常習者なんかもそうで、「もう二度とやらない自信がある」という人ほど危うい。しつこくなるが、自分を善人だとか道徳的だと思っている人もそうで、そんなことを口にしていたら欲に負けて悪人一直線だ『「落伍者の話」でモチベーションが上がる』という面白い話も出てきたが、こういう話を聞いて、「人間的に最低じゃん」と思うんじゃなくて、「こういう悪い心を持ってしまうのも人間だよね」と考え、人に見えないところで自分のためにやると、とても生きやすくなる。無駄に綺麗に生きようとすると、本音を抑圧することになるし、フロイトが言っているように、抑え込んだものは必ず形を変えて出てきてしまう。それが憎悪だったり、攻撃衝動だったりする。まぁなんにせよ、ネガティブなロールモデルによってやる気が上昇する人はいくらでもいるのは事実だから、大きな紙にダメ人間ピラミッドを作って、一番上に王冠を被った自分の写真を貼って置くなんてことをすれば、少なくとも下位のダメ人間よりはマシな人生を送っていると思えて生きやすくなるのではないか。愚かになろう。愚かを認めよう。愚かを楽しもう。その先で、真の優しさと幸福が待っているはずだ

 

人はなぜ憎しみを抱くのか (集英社新書)

人はなぜ憎しみを抱くのか (集英社新書)

 

『私たちが激しく抵抗する相手は、私たち自身の中のいきいきとした生そのものなのだ』とあるけれど、やはり人は、同族嫌悪をベースに攻撃してしまうことがあるんだよね。僕くらいの小規模なブログでも、アンチが多々いるけれど、その人たちのいくらかは、過去や今の僕に、実はどこかしらが似ている人だったりする。ちょっと運命が変わっていれば、親友レベルに仲良くなっていた可能性の高い人でもあるのかもしれない。たぶん今回、僕を貶している人も、実は言うほど悪い存在じゃない可能性が高い。だから僕の方からその人を嫌うこともなければ、直接的に詰め寄って反論することもない。僕も含めて全ての人間は愚かなのだ。ただただ、それだけのことなのである

*1:思い違いの法則: じぶんの脳にだまされない20の法則 レイ・ハーバート