ピピピピピの爽やかな日記帳

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ピピピピピの爽やかな日記帳

親の経営コンサル会社で働く20代後半、社内ニートの話

ピピピピピの爽やかな日記帳

正月のお年玉は最高でも30万円しか貰えたことがない 親戚付き合いという労働

 今回は、「お年玉という子供を買収するブラックテクニック」について語ろうと思う。

子供は究極のコンパニオン 銀座のキャバ嬢より稼いでしかるべし

 幼かった僕は正月になるといつも、「搾取されているな」と嘆息していた。
 親戚の家に子供を投げ入れて、安い時給(お年玉)で働かせる。
 これって、日本の派遣業界の構造に瓜二つなんだよね。
 物理的に汚いお札を突き出してくるおじさんもいた。
 そして僕の親は、そいつの子供にピン札を渡す。
 これってマネーロンダリングに近いよね。
 それに銀座のキャバ嬢はベタ塗りの化粧で猿芝居を演じながら、5時間くらいで3万円ほど稼いでいる。
 片や子供は、純粋無垢な微笑みを咲かせても、時給1000円にも満たないことがある。
 社会の宝と呼ばれる子供の貴重な時間が、買い叩かれている。
 我が子の安売り競争が深刻だ。

正月は、パパとママの損得勘定が凄い

 そもそもお年玉って子供への優しさというよりも、ただの慣例行事――贈与ゲームでしかないから、子供が貰った分と同じくらいの金額を、親は相手の子供に返さなくてはならない。
 極端にいうと、無味乾燥な物々交換なのである。
 お年玉によって手に入る幸福なんてのは、紛い物だからね。
 僕のところは比較的裕福だったから楽だったかもしれないけれど、他の家族の親を観察していたら、「いくら貰った? 同じくらい返さなきゃならねぇからな。痛手だぜ」という、いかにも嫌みったらしい心の声が読み取れた。
「損してたまるものか!」という包丁を持ったオニババみたいな圧力と一緒に。
 親が、ぴりぴりした青息吐息のオーラを放っていると、子供はそれを敏感に受け取ってしまう。
 親戚の家にいた子は、怯えて痙攣していた。
 そうでありながら、「頑張って喜ばなきゃ! 子供の義務だもん!」ということで感情と表情を偽造していた。
 ゆえに子供が精神的に負担しているエネルギーの分も考えると、少々のお年玉じゃ赤字なんだよね。
 それでも子供は純朴なエンゼルだから、頑張って作る。
 粉飾決算みたいな笑顔を――

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最低時給以下のお年玉

 子供は宝だと言い広めながら、一方で奴隷のように扱う、大人の汚いダブルスタンダードが日本中で展開している。
 田舎の荒れ果てた家に連れて行かれ、巣作り中のクマンバチに刺され、吸血性ヒルに幼い体を弄ばれ、出血が止まらなくなる絶望で落涙しながら、蚊の潰れ跡がお洒落なポチ袋に入った3000円を貰って帰宅。
 なんだこれは、治療費か?
 正月早々、大人からこうした残酷な精神攻撃を受けた経験だけで、僕の脳の記憶領域は6%くらい埋まっていると思われる。
 あの頃の僕と弟は、延々とぐれてるヘンゼルとグレーテルみたいだった。
 巨大で熱されたかまどがあったなら、大人を一人残らず、焼き肉料理にしてしまうくらいの怒りに囚われていた。

子供にとって親戚付き合いは、立派な労働

 お年玉の相場というのは昔から、小学生だと3000~5000円くらい、中学生だと5000~1万円くらいといわれている。
 金の用意が整っている親戚の数が10人だと仮定すれば、正月だけで手元に3万円~10万円が転がり込んでくる計算になる。
 果たしてこれは割に合う金額なのだろうか?
 居心地の悪い狭い空間に閉じ込められ、親戚のジイジやバアバから好奇の目を向けられ、独特の緊張感に苛まれる。
 そして道化を演ずることで、「子供は純粋で良いわねぇ~」という言葉を引き出すよう努力した結果が、一件3000円~1万円のお年玉。インセンティブはなし。
 本来であれば、お利口さんにしていたら5000円をプラスしたり、なめらかな笑顔で老人をほんわかさせたら商品券を付けたりと、お年玉+αがあるべきだと思うんだよね。
「お年玉が登場するまで寝てるわ~」
 というように、金の受け渡し時間になってから起床するような、緩い働き方が許可されているなら文句はないのだが、大概の場合、くたびれた大人のしわがれた持論に耳を貸さなくてはならない。
 学童カウンセラーとして、ぎこちなさのある相づちを打って、ジイジやバアバにリスペクトを示し、バイブスを高める手伝いをし、ラポールを築く必要がある。
 子供を立派な労働者として見れば、最低時給を下回るお年玉を配るのは不誠実ともいえる。
 この僕も親戚の家に泊まりに行って、2000円しか支給されなかったときは、蟹工船の化身……と思わざるを得なかったし、ジイジやバアバが物の怪に見えてしまった。
 自宅へ向かう車内で、子供は泥のように眠るものだが、あれは仕事疲れなのである。
 であるからせめて、お年玉に合わせて拘束時間も決めるべきだろう。
 ぎょうさんの大人がいるところに、子供をたった一人投げ込むのは、ワンオペが常態化したブラック企業の手法とも同じである。
 お年玉の金額と、子供の労働時間、この二つのバランス取りをきちんとやるべきだ。

正月の接待メイクマネーは不幸せの元

 親戚の家で退屈な話を聞く→荒れた心をお年玉で清算
 こうした流れが常態化することによって子供は、金が手に入るという動機付けがなくては、人の話をしっかり聞かなくなる。
 お年玉というのは、金銭的な条件付けをされた拝金主義者を生み出してしまうリスクがある。
「1月だけ天国、残りは地獄」
 浜田という同級生がこんな言葉を残したのだけれど、これはつまりお年玉を貰って使い切ってしまうまでの一ヶ月間だけは夢のような時間を過ごせるが、それ以降は貧乏な屈辱を味わうだけの悪夢だ、という意味だ。
 最初からお年玉なんて概念がなければ、12ヶ月を均等に楽しんでいたかも知れないのに、ガキの分際でがっぽりメイクマネーが出来る正月が存在することによって、他の月が馬鹿馬鹿しくなってしまうのである。
 ビルゲイツがパン工場で働かないのと一緒。グーグルが便所の壁に広告を貼らないのと一緒
 人は利益が少ない場所では、手を抜くようになってしまうのだ。
 そしてお年玉は、心を不健康に揺さぶる。
 大量の現ナマが入ったかと思えば、一気呵成に使い果たしてしまい、惜しい人を亡くしたり、やぐられたような虚無感に包まれてしまうのは、誰もが通る道だ。
 その果てに、情調不安定な子供が誕生する未来がある。
 お年玉というキャッシュが、獰猛な本能であるエスを操り、そこへ更に、「足るを知りなさい」という親族の叱責によって形作られた超自我が加わることで、子供の純粋な自我は潰される。
 そうやって子供は、汚れた大人への階段を駆け上がるのだ。

雑記・お年玉にまつわるあれこれ

 子供は意外と大人の財力や振る舞いを見ている。
「けちくせぇ、ジイジだな」
 こんな風に思ったことのある子供は、数え切れないくらいにいるだろう。
 なにより親戚の集う空間というのは、綺麗事と社会的比較と下品な笑いの集会場だからね。
 その集まりの中において、強者の位置に立てないものは苦痛でしかない。
 引きこもりニートが地球上で最も怖がるのは、核兵器ではなく親戚だ。
 親戚のかしこまった笑い声で、耳の奥がぎゅーんっと貫かれ続けているように痛くなる。
 この僕も過去に4年間引きこもっていたことがあるから、激痛の余韻が未だに継続している。
「うちの子供は……出来ないからねぇ」「見てごらんヒロタカくんを。あなたとはレベルが違うわ」と、許可も取らずに子供を腐し合い、建前の褒め言葉を連発する。
 惨めな気分で居心地悪く正座するしかなかった。
 あの日、僕は、相対的剥奪の感覚を知った。
「自分は当たり前に出来て当然のことが出来ないクズなんだ、みんなが僕の自尊心を抜こうとしている、僕なんて、ただの安いゴボウなんだ……」
 顔で笑って、心で泣いた。
 だから僕は、親戚の葬式には絶対に行かない。
 金品と引き替えに、臓腑を抉られてしまった記憶が蘇るからだ。
 子供時代に親戚の家に行くのは、少年鑑別所にぶち込まれる感覚に似ている。
 罪と咎のない少年が、手枷足枷を付けられ、日の光から遠ざけられる。
「ありがとうを連呼しろ」「頭を下げろ」「丁寧に喜べ」
 味の薄い雑煮ばかり食わされ、感謝の強制という拷問を受けた。
 真っ暗な憂鬱と、ごく僅かのお年玉だけが存在していた。
 散々ありがとうを乱用した帰り道、小学生の僕は、本音を一度だけ口にしたことがあった。
「感謝は人として当然だけれど、それは強制されることじゃない。そうだろ、パパ?」

 

おとめ地獄?ヴァージニア インフェルノ? (児嶋都作品集)

おとめ地獄?ヴァージニア インフェルノ? (児嶋都作品集)

 

『常軌を逸したブスと 常軌を逸したデブ どっちがいい? えっへっへっへっ』など痛快なブラックユーモアがあるのだが、これは大ブタを凌駕する特大のデブガール(152キロ)が、綺麗になるためにダイエットするのだけれど、そうやって辿り着いた最後の自分は、『ぎゃ―――っ』と叫ばずにはいられないくらいのドブスであったという話。やはり、この世の中には、得に見えた損、天使に見えた悪魔、善行に見えた悪行というものが存在するものであり、お年玉もそうした二律背反を備えた恐ろしい人工兵器であるなと思う。お年玉は子供から、自由な表現を収奪する。本当は幼い心そのままに、「つまらなかったー」と叫んで帰りたいのに、お年玉で買収されたことによって、「ありがとう。凄く楽しかったよ。もう帰りたくな~い」というブリッコに徹さなくてはならなくなる。金を貰った分、大根芝居を見せることによって、プラマイゼロ、トントンにするのだ。子供とはいえ、返報性の原理が働いてしまうもので、お年玉を受け取りながら、「バーカ」とは叫べなくなってしまう。お年玉は我慢の対価なのだ。嬉しさと悲しさが一緒くたにされているのが、お年玉なのである。この本の中に、『いじめ地獄』という話があって、鬼山毒子(おにやまぶすこ)という気が狂って見えるほどのブスを、とある美少女が自責の念に駆られて泣きながら守ってあげようとする話が出て来るのだが、子供がお年玉を貰う過程ってこれに似てるんだよね。お年玉を貰うというのは、怒りと涙と、そして幻想の喜びによって成立するストーリーなのではないかと思う。というのも、お年玉が舞い込んで来て散財してしまうと、すかさず親が、「計画的に使わないからあなたは不幸せになるのよ。自分が撒いた不幸の種に苦しみなさい。いい気味だわ」といった顔で怒鳴る。そのせいで、お金は綺麗で汚いというアンビバレントな物質であることを、幼くして学んでしまう。その扱いの難しい恐ろしさによって、お金のことを考え過ぎるのはタブーだと思うようになる。それが原因で日本は、お金についての勉強が不足している人が目立っているのではないか。親が落とすカミナリによって、お金が消えてゆくことに恐怖を感じ、トラウマを背負う羽目になり、反復脅迫に苛まれるようになる。「次こそ良い男を見つけてやるんだから!」と口で宣言しながら、どう見ても顔だけしか良いところのないダメンズと付き合って不幸せになる女のように。人は不幸すらも癖にしてしまう、悲しい生物であるがゆえに、衝動的に不幸を呼ぶボタンを高速連打してしまうのだ。お年玉は恐ろしい。ぎゃ―――っ