ピピピピピの爽やかな日記帳

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ピピピピピの爽やかな日記帳

親の経営コンサル会社で働く20代後半、社内ニートの話

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なぜ引きこもりニートは、「アニメにハマるのか?」についての考察

 年末に観た番組の中で、元2ch管理人のひろゆきが、「なんで引きこもりって、みんなアニメにハマるの?」という疑問を口走っていた。

 今回はこれについて、約4年間に渡ってまともに働かず、年がら年中、日がな一日、アニメを見続けていた経験のある元プロ中毒者の僕が、解説しようと思う。

人生の物語を失った者へ、物語を補給してくれるという機能

 引きこもり生活というのはある意味、時の止まった次元で生きているようなもので、起承転結どころか、ストーリー性が欠落している。
 虚無感のみが発生し続け、0が0になり、その0がまた0になるような、意味を感じられない時間だけが過ぎてゆく。

 新しい一日は訪れるけれども、新しい自分には出会えない。

 こうした絶望につける薬が、物語を補完してくれるアニメなのである。

 堕落というのは確かに楽なのだけれど、そこには恐怖がセットされている。
 どんなに極まった怠け者であろうが、ただの一つも自分の人生が前に進んでいないという事実には、耐えられないものだ。
 日常に動きが必要――それは何かといえば、今この瞬間の自分が意味のあることをしているという感覚である。
 もっといえば、引き続く物語への渇望ということだ。

 止まっている生き方というのは、死を連想させるから、本能的にそれに抗おうとして、なんらかの進展を求めようとするのだと思われる。

 人は、物語なしで生きていけない。
 アニメは、己の中に物語を見出せなくなった悲惨な人々に、擬似的な成長感覚や人生の起伏を届けてくれる。

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ではなぜ、物語を求める先がアニメなのか

 極端にいうとスタンフォード監獄実験みたいなもので、人は自分の肩書きや地位に沿ったような行動を取ってしまいがちであり、引きこもりニート=アニオタっぽい、という集合知を元に、知らず知らずのうちにオタク趣味を持つようになるのだ。

 TVなんかでも、オタクは○○だという分かりやすいイメージを築き上げて放送しているから、日本で一般的な生き方をしている限りは、その影響下から逃れられない。
 そのため世間に蔓延する引きこもりニートのイメージそのままに、動いてしまうようになる。
 ステレオタイプな世間の操り人形と化すという訳だ。

 そしてなにより、ジャパニーズアニメーションというコンテンツは、日本人の感性に合わせて制作されているのだから、最初からハマりやすく出来ている。
 引きこもりニートになったからハマるというよりも、自由な時間を獲得した人が真剣に観たから、作品に備わっている楽しくなってしまう罠にまんまと引っ掛かって抜け出せなくなるのだ。

 この辺は、『魔法少女まどか マギカ』が社会現象になったときにも証明されたと思うけれど、たとえば芸人の矢作が、「最初、絵が凄い苦手だったけれど、凄いよこのアニメ!」と大絶賛していたように、日本のアニメは本気で視聴するとハマってしまうカラクリが組み込まれている。

 身も蓋もない言い方をすれば、引きこもりニートがアニメにハマるのは、日本人の感性に合わせた作品を、腰を据えて観たのだから当然ということになる。

 集合知に後押しされて真剣に視聴したから、というだけの単純なものだ。
 複雑怪奇な心理現象が発生している訳でもない。
 引きこもりニートも所詮は、単なる有象無象の人間なのだ。

 更に付け足すと、アニメのようにつべこべ非難されやすいコンテンツは、訴求力が尋常でなくある。

 なぜならば、ぐれたガキとタバコの関係みたいなもので、人の背徳的な好奇心を膨らませるからだ。
 無職で昼間に起きるような出来損ないが、アニメをダラダラと視聴する。
 これって、未成年が違法なアイテムに手を伸ばすような後ろめたさがある訳だ。

 やっちゃダメだと思い込むほどに、自分を止められなくなる現象が発生する。
 不健康で不純な気持ちが浮上し、視聴せずにはいられなくなる。

 アニメ業界の拡大に、引きこもりニートの罪悪感が幾分か役に立ったことは、間違いないだろう。

 引きこもりニートに幸あれ。

追記・なぜ映画やドラマでなく、アニメなのかについて

 アニメというのは、省エネルギーで楽しめるコンテンツだからだ。

 テンプレ化されたストーリーが展開するから、脳に負担が掛からず、ただ座って観ていられる。
 集中して見なくとも、現実をそっちのけにした時間の過ごし方が出来る。
 心的エネルギーを節約しつつ、楽な現実逃避が可能。

 人間は低きに流れるものであり、活字界にラノベが参戦して掻き回せたのだって、楽に物語を飲み込みたいという、怠惰な大衆の想いを実現させたからだ。
 それでもまだ足りないということで小説家になろう作品が登場し、テンプレの共有によって、ますます頭を使わなくとも、時間の流れを体感出来るようになった。

 こうした人間の楽をしたい願望が、アニメにハマるということに繋がる。

 一話は大抵、数十分という区切りがあり、重さを感じずに済む。
 学校の授業の三分の一くらいの時間で見られる。

 アニメほど金が掛からず、怠惰な人間に適したコンテンツはない。

 しかも分かりやすいテンプレが存在することにより、感想の共有が容易であるから、ネットにて他者と繋がる材料にしやすい。
 ネットの普及により、シェアの時代になっているから、インプットとアウトプットを楽に行わせることが可能なコンテンツは、引きこもりニートを惹き付ける。

 極限まで楽をして楽しみたいという、引きこもりニートの夢を叶えるコンテンツ、それがアニメなのだ。

追記2

 アニメは1話、2話と数をこなして行くからこそ、物語を享受している感覚が強まる。
 視聴した話数が増えるだけでも引きこもりニートは、ある一日に対して意味があったと思い込みやすくなるのだ。

 そして最も重要な点として、引きこもりニートがアニメにハマり込む理由には、自己陶酔が関係しているのではないか。

 言うなれば自傷行為に近いと思うのだけれど、「どうしようもない僕が、美少女が出現したり、中二病的だったりするアニメを延々と見て、もっとどうしようもなくなってやる」という自己破壊的なハマリ方が存在する。

 ダメ人間だからこそ、よりダメな部分を強化して、己に究極的に酔っ払うということだ。
 オタク系の趣味にハマる引きこもりニートは、こういうプロセスを経ていることが多いと思われる。
 傷付きたくない人が、あえて傷を付けられる場所へ自ら向かうという共依存にも近いような、自己犠牲的なスタートから始まるアニメ鑑賞。
 極論に聞こえてしまうかもしれないけれど、多かれ少なかれ、自意識の異常性と共にオタク趣味は走り出す、というところがあるんじゃないか。
 少なくとも僕はそうであった。