ピピピピピの爽やかな日記帳

ピピピピピの爽やかな日記帳

親の経営コンサル会社で働く20代後半、社内ニートの話

ピピピピピの爽やかな日記帳

男子が「草食化」したのは、女子の「汚さ」が可視化されたから

女は遙か昔、女神様だった

 むだ毛の処理をしていたり、足の踏み場もない塵埃だらけの生活をしていたり、優しい微笑みが作り物でしかなかったりするとは、夢にも思わない男だらけだった。

 女は光に包まれた存在であり、神々しさが眩し過ぎて直視出来やしない。
 そうした女性観――揺らぐことはないと考えられていた常識が存在した。

 しかしインターネットの普及により、突として崩れ去った。
 まるで偶像破壊のように仰々しく、女の真実が地球上に晒されることになったのだ。

 すっぴんが酷い、ヒゲも生える、足はそり跡でざらざら、涙腺を操作する、笑顔詐欺が常套手段、凄まじく劣化する、生き様がおっさんを超越する。

 つまり男たちは今までずっと、幻想に弄ばれていたのである。
 そしてネットの浸透という激烈な勢いでもって、女は天上世界から、地上へと叩きつけられた。

女神様から、人類への格下げが行われた

 殊にSNSの登場は、神の審判のようなものであり、「女は雲の上の存在として適切ではない」という決定が下りた。

 砕いて説明すると、10年前の地球という動物園には、男と老いぼれ、その他諸々の生物しか暮らしていなかった。
 女はというと、清く美しい天界にいて、対等な交流など許されない、不可侵の存在であると考えられていた。
 こうした女神様マンセーな男性的世論が脆くも崩れ去ったのが、今現在のネット社会ということだ。

 とどのつまり、光を帯びていたはずの女が精彩を欠きながら、我らが動物園・地球に墜落したのである。
 こうなると上下関係が消え去り、同一の大地上の関係になってしまう。

「なんだよ、女も所詮人間なのかよ」「しかと見ると、色々と雑でおっさんと大差ないではないか」

 きら星のような夢が、男の心から失われてしまった瞬間である。

一昔前は、本当の意味で女を知らない男が溢れていた

 10年前にも、女の生態を鮮明に描いていた映像や活字作品があった訳だけれど、結局それらはフィクションとして消化されるだけであり、そこから人間の本質を学び取ろうとする者などほとんどいなかった。

 僕が中学生だった15年くらい前は、ネット接続が庶民の当たり前にはまだなっていなかったから、常習的にパソコンをいじくっていることがバレると、「おまえ犯罪者かよ」と罵倒され、暴行を受け、青春色のあざが体中に出来て、アバンギャルドな芸術作品へと昇華した。

 自分の住まう環境以外では、学べる機会が極端に少なかったのである。
 そのため、先輩などから女についての情報を継承して貰えなければ、女=未知の生命体として不安視しつつ生きるしかなかった。

 分からないものには近づきがたく、近づきがたいからこそ、好奇心をくすぐられてしまい、見ざるを得なくなる。
 だから昭和生まれの男は、大体の女を、高嶺の花と思っていた。

 ストーキングと、遠目による覗き行為。
 こそこそと陰湿に、女神様を観察する男だらけの時代があった。

 僕が考えているカリスマ論として、お近づきになることが許されない存在ほど、狂信者を大量生産し、夢幻の偉大さを生じさせるというのがあるのだが、そこから鑑みるに、自分とかけ離れた場所にいる女ほど、物凄まじく優美に生きていると評価したくなってしまうのだと思われる。

 単純にいえば、以前の女たちは握手出来ないアイドルであった。
 目前にいるはずなのに、武道館のステージで踊り、歌っているような存在だった。
 であるから昨今、会える存在になったのは、AKBをはじめとしたアイドルだけじゃないのだ。

 全ての女が、たかだか女に成り下がり、男の心に有り難さを生じさせるパワーを欠いた。
 というよりか、女はそもそもが女神様などではなかったのだが、男に知識がなかったために、そのような馬鹿げた微笑ましいくらいの無様な勘違いが、太く長くおびただしく、継続してしまっていたということだ。

 女はずっと女だったのである。
 男が身勝手に神話じみた妄想を持ち、脳裏で膨らむ女神様に耽溺していただけの、独りよがりな気持ち悪いお話だ。

 草食系男子が増えてきたのは、男という愚かしい生物の、気味悪いラブソングが流れていた、バッドクリエイションな時代が過ぎ去ったことの証明であると考えると、良い傾向といえるのかもしれない。

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「女はパッケージが美しい福袋」と思っている男ばかりになった

 つまり、男の病的な理想である女神様が不在の、不満足な恋しか出来ない男が増えている。

 歴然たる事実として、男も女も所詮は生物だから、本能的に相手を好きになることはある訳だが、この好きの度合いが低下しているのが、今の社会情勢だ。
 そのため、経済的なことなどを考えた瞬間に、恋心が心のダストボックスに押し込まれる。

 究極に好きな気持ちは代替出来ないけれど、「好きかもなー」という鼻歌交じりの薄い恋心ならば、ゲームとかマンガに置き換えることが出来てしまう。

 端的にいうと、女から超常的なパワーが失われたのである。

 アナログの時代は、女に悪ふざけでウィンクをかまされただけで、心肺停止を引き起こすドキドキ感が芽生えた。
 今はどうかといえば、女が渾身の投げキッスを放ってこようが、浅ましいトラップを仕掛けてきた美人局としか考えられなくなっている。
 それどころか、少女マンガのイケてるヒロインの物まねをするスベり女、というレッテルが、半ば自動的に貼られる。

 昔は女の、嘘笑い、嘘泣き、嘘喜び、嘘驚き、嘘嘆き、嘘疲れ、嘘正直、嘘憂鬱、嘘悲劇、嘘返事、嘘謝罪などを、真に受ける男が腐敗するほどいた。

 しかし遂に、女はペテンにコミットした存在であることが判明してしまった。
 SNSという裁判所で、十二分な証拠が叩き出され続けている。
 インターネットにアクセスすると同時、有罪の音色が鼓膜を震わせる。

 それゆえに、たとえ可愛い子でも、優先順位を下にされることが増えてきている。

 言うなれば、女の真実化によって、男が草食化してしまったのだ。
 もっと突っ込むなら、男は妄想に恋をする生き物であり、その妄想を疎外する事柄に触れ過ぎると、現実を直視せざるを得なくなり、結果的に恋心が縮こまって、わざわざ頑張ってまで好きな子を得たいと思わなくなる。

 これは福袋のレトリックであり、そそられるけれども、中身は女神様とはほど遠いことをあらかじめ知ってしまっているから、「別にいらないや。似たり寄ったりのコンテンツは無限にあるから」と拗ねたように排除してしまうのだ。

 まとめると、最初から存在した女の本性を、やっと最近になって男が知り尽くし、戦々恐々としているのである。

 生まれたての子鹿と変わりない男を、これからも末永く宜しくお願い致します。

雑記・恋愛に、反差別思考を持ち込むフェミニストの浅はかな思考について

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快感追求――私たちはこれをリビドー(Libido)と言っているが――はその目的物を遠慮会釈なく選ぶ。

 数年前に読んだ本であり、上記のように書いてある訳だが、根源的な異性愛の欲望というのは、見境なく荒々しいものだから、アニメの少女を愛したり、女の履いたブーツに興奮したり(記号化≒モノ化)するなど、直接的に命ある異性へと向かわなくても叶えられる、満足出来るものなのだ。
 こういう人間の傾向があるから、この世にフェティシズムというものがある訳で、たとえば二次元の住人に恋をするなんてのも、極めて人間らしく、正常なことである

 汚れの可視化した女そのものに注視すると、「嗚呼、この程度か……微妙だな」とリビドー(色情の衝動)が弱まってしまうがゆえに、それを避けるため見っともない曲がりくねった記号化の恋(女子大生だから好き、コスプレが似合うから好きなど)に走る者が増えていて、だからこそ前時代よりも異常変態が量産されているのではないか。

 僕自身も、素人型サディストと呼べるような、見下してくれる女が好きである。
 女王様は嫌いなんだけれど、女王様「風」の女が好きで、無邪気に男を虐げる子に惹かれる。

 なぜこうも、ひん曲がった嗜好を持ってしまったかといえば、やはり25歳まで彼女がいなかったのと、社会的な女の汚れの可視化が重なったことで、心が屈折しているからだろう。

 言ってしまえば、今の時代は女を、女そのものとして見ている男は少なく、ありのままを愛する恋が出来る人は少数派になって来ているのではないかと思われる。
 記号化――つまり目の前にいる女から要素を取り出す、たとえばルーズソックスを履いている女、金髪ギャルという女などのように、道徳性を無視したことを言ってしまうならば、男は女をいくらかモノ化して見ている。

 男は視覚で恋をする生き物ゆえに、致し方ないのだ。

 これは性差の話だから、そこに差別だとか、非人間的だとかいうパワーワードを持ち込んで、男の生態を一変させようとしたって、そんな無理は通らない。

 断言しておくと、男の恋の始まりは、モノを買う感覚と同じ。

 そこから次第に情が移って、本来のその子自身を見るようになって、鑑賞的な価値から、愛しさという価値に変化し、一生添い遂げることになるかもしれない。

 であるから恋愛において、差別だなんだと口にしているフェミニストは、机上の空論家であり、空回りのスペシャリストというか、本質というピースを横にどけて主張を完成させようとするから、まさに画竜点睛を欠くという言葉がふさわしい、浅はかな存在なんだよね。

 ただでさえ記号化が促進されて、今まで美しいとされていた恋愛が少なくなってきているのに、考えの足りない人々が、男女の在り方にいちゃもんをつけることによって、男女の中心により巨大なバカの壁が建設されてしまっている。
 インターネットは、見ないようにしていたものも表に出してしまったし、ズレた人々の低レベルな発言にすら拡散性を持たせてしまった。

 たとえば、大ヒットした『黒崎くんの言いなりになんてならない』という作品だって、黒崎という黒悪魔と呼ばれている超ドS男子が、女を奴隷にするような感じで物語が幕開けする訳だ。

 これが売れたのは、男女関係という事柄には、明確な常識などない、なんでもありの世界であると本能的に考える人がぎょうさんいたからである。

 以前書いたけれど、差別は青春であり、愛なんだよね。

pipipipipi-www.hatenablog.com だからフェミニストは、言語化不可能な高揚感を伴う特別の恋を経験したことがないのではないかと思う。
 恋愛的な赤ちゃんであり、恋愛的な社会を知らないから、差別だとかいう言葉のおもちゃを用いて遊ぶことで満足するしかない。
 首の据わっていない、おままごと集団なのである。

 精神分析入門の中に、『自分の好まぬものを真実でないとみなしたがり、その証拠をすぐに見つけてくるのは、人情のつねである』とも書いてあった。

 世の中の物事の正否を突き詰めて考えると、どちらにでも転がれるから、本気を出せば全ての嫌いなことについて、なぜダメなのかを語れてしまうんだよね。
 そういう意味では、フェミニストの大半は赤子だから、SNSよりも揺りかごが適している。

 おやすみなさい、良い夢を。

 まとめると、草食系男子が増えた原因は、「女の汚れの可視化」と「バカの巨大化」のせいであると、断言出来る。