ピピピピピの爽やかな日記帳

ピピピピピの爽やかな日記帳

親の経営コンサル会社で働く20代後半、社内ニートの話

ピピピピピの爽やかな日記帳

家庭内ヨイショをしなくてはならない子供たちの話 家族という牢獄の囚人

僕は、今の親に育てられたくなかった

「あなたが本当にパパやママを嫌いなら、施設で暮らすことも出来るのよ? あなたの一度きりの幼少時代を、あなた自身で決定しなさい」

 そんな逃げ道があれば、僕は迷わず利用しただろう。

 親から受け継いだ遺伝子が悪くなかったため、生活困難者にならずに済んだけれど、教育方法が劣悪だったため、人間的魅力を引き算されるように飼育された。
 人道を無視してぶっちゃけると、親不在で育った方が、僕はよりまともな人間になっていたと思われる。

 幼い頃の僕にとって親は、悪質で有害なモンスター以外の何者でもなかった。

「ピピピ家にだけは生まれたくなかった」が口癖であった。

 結果論としては、現時点における幸福度が高いから、「産んでくれてありがとう」と本心で思うのだけれど、正直な話、育てて貰ったことそのものに対しての感謝は薄い。
 総合的な見方をするとありがとうの気持ちで胸が一杯になるけれども、育成方針だとか、親に掛けられた言葉とか、そうした個別部分を取り出して評価すると、悪性の家庭だったと思わずにはいられない。

「育てて欲しくはなかったけれど、産んでくれて本当にありがとう」

 これが僕の、正真正銘の想いである。

 だからこそ大人になって対等になった今、劣悪な親子関係という鎖を外されて、一人の人間として接することが出来るようになったから、すこぶる仲が良くなったのだと思われる。

 僕の親は、有能な経営者であり、面白くて尊敬出来る存在ではあるのだけれど、子を育てる親という評価をするなら、首切りご免の0点であった。

 あの頃の僕は、「二人とも交通事故で他界してくれないかな」と毎日願っていた。

 画用紙を買ってきて、紙人形を作り、その裏表に真っ赤な油性ペンで罵詈雑言を書き殴り続けて、赤いちゃんちゃんこを着せてあげるという呪いも実践した。
 自宅に僕一人だったときは、油性塗料を大量に垂れ流して、号泣しつつ素手で直接塗りつけていたこともあるのだが、窓を閉め切っていて匂いが充満したせいなのか、神経が衰弱し、尖らせ過ぎた憎悪に異常が生じて変形したからなのかは分からないが、腹がはち切れんばかりに愉快な笑いが止まらなくなって、気が狂ってしまったこともある。

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親の絶対的権力に怯え、ヨイショすることで生き延びようとした

「親に世話になっているジャリガキが刃向かうな!」

 尊大な言い様をした父が詰め寄ってきて、僕の頭部を鷲づかみにするや否や、平手打ちを数発叩き込み、それから頭突き、肘打ち、膝蹴り、足払い、そして極めつけは丸めた新聞での百叩きを繰り出し、僕を沈めた。

 今思い返せば、どの打撃も緩やかで、僕という生命体を破壊する目的がなかったことは分かるのだが、たとえ手抜きだとしても一方的な暴力がそこに存在すると、逆らう意欲が低下してしまうものだ。

 僕は次第に内向的になり、家庭内の君主である父と母の感情を逆撫でることのないよう、繊細な行動をし続けた。
 つまり、生存目的でヨイショするというプロチャイルドが誕生してしまったのだ。
 スマートに表現するならば、忍び人としての生き様がスタートした。

 それもあって、幼き僕の尊敬する人物は、『チャイルド・プレイ』という作品に登場する邪悪な人形・チャッキーであった。

 冷め切った家族だった。

 弟が階段(20段)で足を踏み外して、「あぁあ、うぁぁ、ぐうぁぁっっ!」と転がり落ちて、「ぁぁ……助けて……」と救いを求めて呻いたときも、父と母は多忙ゆえに、「怪我はない。そんなことで泣くんじゃない。情けのない顔。腑抜けが」と吐き捨て、去って行った。
 僕は狼狽えながらも、弟を置き去りにして逃走した。
 背後では、「うあぁぁあ~~~~~~!」という断末魔の叫びが上がっていた。
 あの階段を上ると、今でも、弟が落とした魂の嘆きが微かに聞こえてくる。

 このように、子供の気持ちが軽んじられる家庭だった。

 とりわけ父の血管がぶち切れると一大事が起き、みぞおちに鉄拳を入れられ、体が跳ね上がり、もう一発背中へ肘をぶち込まれ、勢いづいたまま床に体がめり込んで、「ぐあぁ……」と嗚咽を漏らすことが日常茶飯事であった。
 それを見た弟は笑い、妹は恐れ、母はけたたましく笑う。

 憎み合い、貶し合い、つぶし合いを実行する、内部争いの絶えない家庭であった。
 そうした血縁戦争の中で僕は、父や母の猛攻撃を受け流す方法を編み出した。

 受け身の技術というか、攻撃をモロに受けて苦悶しているかのように、父に錯覚させながら痛みを分散し、「ギャ――――!」と適切な頃合いに叫ぶ演技を入れることで、完膚なきまでにしつけされた感を見せつけるのだ。

 家庭内ヨイショをする子供という職業は大変である。
 殴られ屋までしなくてはならない。

 古い親たちは、体罰主義が広がった暴走的社会の中で生きてきたから、息つく暇もなしにリアルファイトを持ちかけて来る。
 教育というよりも、痛みで分からせることで自分が満足するという、身勝手な親がごろごろいるのだ。
 ド田舎だと、鯉が生息する池に投げ込まれて、短期的な水中生活を強いられたり、猛吹雪の中、かまくらに閉じ込められたりすることがままある。
 怒りで理性が吹き飛ぶと、実の子を一瞬であれ家畜扱いしてしまうのだろう。

 親というのは、狭き空間の王者であるから、家来である子は従うことしか出来ない。
 それゆえに、ヨイショこそが、唯一の武器であり防具であったのだ。

子育て=合法の人体実験・ギャンブル

 厭な幼少期を過ごした僕は、子育てというのは、社会に賞賛される人体実験であり、政府に背中を押して貰える賭け事である、と痛感した。

 幸不幸を見据えた話ではなく、衝動――生物的発作行為のことを、出産、子育てと呼ぶ。

 これは拭いがたき宿命論であり、人類が避けて通れない巡り合わせだ。

 それゆえに、「産んで欲しくなかった」だとか、「お前を産みたくなかった」という、たわけた発言にろくな効力はなく、命が生じるというのは、悪感情の発生も含めて、人間社会の絶対原理、不変の真理なのである。

人間界は、人間という個の幸不幸や善悪を考慮せず、繁殖繁栄という目標へ突き進む

 人間界は、進歩進化の道から外れることを許さない。

『最大多数の最大幸福』だとか『優性哲学』だとか種々雑多な、人間の歩むべき道を説いた話が至る所に転がっている訳だが、僕が考えるに人間という生物は、もっと大いなる力に揺り動かされている操り人形だ。

 宇宙にいる高次元生命体が、人間を無から生み出して観察しているといった、インテリジェントデザイン説なるものがあるけれど、ここまで奇妙奇天烈な発想は大袈裟にしても、人間は、己が意識可能な範疇とは別に存在する、動機のダイナミズムによって半ばコントロールされている。

 究極の話、善悪とか幸不幸なんてものは、ミクロである個人に取っては重大だけれど、人間界というマクロのレベルになると無意味というか、考えるべき事柄から外されてしまう。

 つまり人間界という大きな単位は、一人の人間という小さな単位に対して味方することはなく、巨大な規模としてのパワーを蓄積することだけをひたすらに考えているから、とある家庭に子供が誕生するというイベントに対して、感謝も喜びもなく、ただただ当たり前のこととして処理される。
 こうした一つ一つの物語を度外視にした無慈悲な出産こそが、人間界の定めなのであって、小さな単位である僕たちは、そうした繁栄が絶対正義という主目的に向かって、無意識に、奴隷のように走らされている。

 そうした無血の感覚、冷酷非道さを借りて口にするならば、「親の器がないのに産むな」「もっと優秀な子が誕生して欲しかった」という後付けの文句や、「育てる自信がないなら子作りは辞めましょう」といった警告は、一切の意味を持たない。
 なぜなら人間は、人間界の意図に突き動かされているだけだからだ。
 幸福も愛情も二次的なものでしかない。

 だからもしも、「なんで頼んでもねぇのに産んだ?」と子供が悪言を垂れてきたら、「これは人間界の問題だから。ミクロであるわたしに言わないでくれる? ミクロ界のミクロの分際で」と返答すると良いだろう。

 そもそも親が存在するのは、日本があるから、地球があるから、宇宙があるから、銀河系があるからであって、ミクロ単体の功績じゃない。

 厳しいことをいえば、人間界というのは、進化のためになるならば不幸せな人を救うけれども、発展性がないと踏んだ場合は、見て見ぬ振りをする、もしくは淘汰する方針を取っていると思われる。
 それゆえに、絶望的な存在が多い日本社会も、弱者を救うメリットが少ないとなれば、彼らが救われることはないだろう。

 人間界というマクロは、どこまでも冷酷非道なのである。

 これは人間という種が栄えるための歩みであり、人間界という大きな単位に善悪の概念は適用されず、そうした無感情で戦略的な繁殖意識みたいなものが、僕たちに流し込まれて、気づけば結婚している、気づけば出産している、気づけば子育てしている、といった未来が訪れるように出来ているのだろう。

 不幸な家庭なんてのは知ったこっちゃないのが、人間界というものなのだ。

 それでも僕たちは、人間界という牢獄で生き続けなくてはならない。
 不運な操り人形のように。

雑記・読んだ本

快楽主義の哲学 (文春文庫)

快楽主義の哲学 (文春文庫)

 

ジイドの詩的な文章のとおり、人類が快楽のために生まれてきたということは、この美しい自然を見ればすぐわかります。動物や植物は、無心に快楽を求め、無心に楽しんでいるではありませんか。

 これは僕がとても好きな本であり、上記のように書いている訳だが、恨み辛みなど負の感情も含めて、それは花が咲き誇る、鳥が羽ばたく、虹が架かるのと一緒で、自然的な現象の範疇だから、全てを受け入れて遊び狂うことのみが、人間の価値だ。

 そう強く思うからこそ僕は、通常は胸の奥に閉まっておくべき本音も、少々の調理はしながらも平気で口にする生き方をしたい。

人々に負担を強いる共同幻想について

 今回の家庭内問題に関しても、子が親を選べないように、親が子を選べないのだから、親子関係上の不具合が頻出するのは当たり前のことだ。

 どう考えても至極当然のことなのだが、この至極当然のことを、己の経験を絡めて感情たっぷりに語ると、「親を大切に出来ない親不孝のクズ」「子育てする資格のないゴミ親」と世間に罵られ、関わっちゃならない危険人物というレッテルを貼られることすらある。

 とどのつまり、どの親も子も、苦しいという事実を飲み込み、心の消化器官を利用して自力で解消することを強いられる社会になっている。
 作り物の父性愛なり母性愛なりを、世間に掲げることでやっと、一人前の人間として認めて貰える。

 そのアクションを起こさずにピーチクパーチクと、己の所属する家庭に潜む悪意や事件を、事実のままに偽りなく語っただけで、非常識な人間の烙印を押される。
 あるいは、アダルトチルドレンというカタカナを心身に突き刺され、傷だらけのメンヘラ扱いされてしまうのだ。

 本音で生きる=人間のクズ、と見なされることすらある歪な世界が、今この地上に存在する。

 親への尊敬、子への愛情、その辺を過剰な常識として押し付けられると、本音をひた隠しにして、嘘の顔を作って暮らし続けなくてはならなくなる。

 だから僕は、高度1万フィートの幸福感を墜落させないために、「育てて欲しくはなかったけれど、産んでくれて本当にありがとう」という本音を、おはようの挨拶のように口にする。

 

(チャイルド・プレイシリーズは、分かりやすい化け物が主人公であるホラー作品(13日の金曜日、テキサス・チェーンソー、エルム街の悪夢など)の中では、最も好き)