ピピピピピの爽やかな日記帳

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ピピピピピの爽やかな日記帳

親の経営コンサル会社で働く20代後半、社内ニートの話

ピピピピピの爽やかな日記帳

30歳目前になって痛感する、心身の絶望的な衰えについて 腐りゆく人体・精神・魂

 どんどん老いぼれる僕の身に起こる老化現象や、生き方の変化について記入します。

目に見えてスタミナが減った

 階段を駆け上がると、呼吸が荒くなり、目眩に襲われて、視界が真っ黒になる。

 その上、距離感覚も掴めなくなってきているのか、階段でつまずき、ズダダダダっと、人間雪崩のごとく階下まで転げ落ちることすらある。
 疲労困憊してしまったときなんかは、起き上がらず天井を見つめ、「これが人生かよ……」と嘆き節を反復する。

 こんな風な憂鬱なミスを犯さぬよう最近は、「よいしょっよいしょっ」と、老婆のように手すりを掴みながら、慎重に階上を目指すようになった。

 もはや自宅登山であるし、滑り防止に、室内でも運動靴を履くことを検討している。

腹を抱えて笑う機会が減った

「ふふっ」「へへっ」「ははっ」

 こうした舐め腐った失笑みたいな、そういう良からぬ笑い方をするようになってしまった。
 昔はお笑い番組を観るたびに、涙を流しながら腹を抱え、床を叩いてへこませるほどの呵々大笑をしていたが、今やそんな噴火的な爆笑は皆無。

「ピピピくんは、目が笑っていないね」と指を差されるようになった。

目の下のクマが酷くなった

 PC作業に取り組んでから鏡に目をやると、鏡面に「たれぱんだ」が映っている。

 歳を重ねるごとに眼輪筋が衰えていったのか、まぶたは下がり、目の下の皮膚がくぼみ、爽やかさが失われた。

 いずれ信頼の置けるクリニックで、ヒアルロン酸やレーザーによる改良をお願いしたいくらいに、疲れ顔が出来上がってしまった。

 髪質とか肌質よりも、眼球周りの状態によって、見た目年齢は決まると思われる。
 僕は学生時代からずっと、中性的な童顔であると言われていたが、クマが深刻になってからは年相応の動物に見られるようになった。

 言わば、汚れを知った大人の顔である。

美容に対しての想いが薄らいだ

 たとえば金・土・日と、不運にもスケジュール帳が真っ白になってしまった場合などは、金曜の夜から月曜の朝までお風呂に入らないことがしばしばある。

 若い頃は潔癖症なくらいに、朝からシャワーに入り、夜は半身浴をして、たっぷりと化粧水・乳液をつけ、常温保存してある食塩無添加のトマトジュース(900g)を一気飲みして、内外から美しくなろうとする努力を怠らなかった。
 サプリメントの有効な組み合わせを考えたり、ケミカルピーリングや光治療をして貰って赤ちゃん肌を目指していた。

 藤原紀香みたいな生き様がそこにあった。

 なのにアラサーに落ちぶれた今となっては、「シャンプーやリンスなんて週1、顔も水洗いで十分。栄養? 楽しく生きることが究極の栄養素なんだから、神経質に考える必要はない」と開き直るようになった。

 ストレスと共に分泌してしまう活性酸素だけに気をつけて生きていれば、肌が荒れたり、禿げたり、唇がパサついたりする危険性が減ってゆく。

 一つ分かったのは、心から美容を楽しんでいる人は綺麗になるが、「美しくならないと……」と追い詰められている人は、いくら金を注ぎ込もうが、逆効果を生んでしまいやすいということだ。
 であるから、適当かつ鈍感に生きられるようになったのは、良い傾向なのかなと考えている。

生存欲求が強まった

 外を歩いていると、看板が落ちてこないか、通り魔がいないか、周囲をしっかり観察しながら逃げるように歩いている。

 銀行に行くと、いつ強盗団が入ってくるか分からないから、飛び込むようにして外へ出られる窓を探しておいたり、防弾チョッキ代わりになりそうなものがないかを見つけるため、窓口に呼ばれるまで終始きょろきょろしている。

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激怒し大暴れすることが皆無になった

 怒りに駆られて椅子を持ち上げて叩きつけたり、壁に穴を開けるようなストレス解消をしなくなった。

 昔は連続でフラれたり、仕事が思うように行かないと、「うあぁぁぁぁぁ!」と雄叫びを上げて本棚の書籍を全て床に叩き落とし、机をひっくり返すような蛮行に及んでいた。

 それが今となっては、抱いた憎しみは文章化することにより、事切れることが判明したから、現実において破壊行為をしでかすことはなくなった。

 よっぽどの敵愾心が生じたとき用に、ファイティングロードという筋トレグッズ販売店で、サンドバッグとグローブを購入して設置したから、怒りのフィットネス化を実現した。
 苛立ちが収まらないときは、金属バッドでフルスイングしたり、皮膚が爛れるほどに殴り続けていれば、気付くと上機嫌になっている。

 メンタルコントロール力が、少々磨かれたということだろう。

露悪趣味の傾向が強靱化された

「ピピピはろくでもない」「ピピピは出来損ない」「ピピピは人間的に劣っている」「ピピピの文章は修飾過多で劣悪」「ピピピはブロガーの中でベスト3に入るレベルで嫌い」

 ありきたりな褒め言葉を貰うよりも、上のような罵倒を浴びせられた方が、心は温まる。
 それもあって無意識に、他人の悪意を引き出し吸収するための言動をすることが増えた。

 これはなぜかといえば、「普通の大人になりたくない」というセンチメントさが濃くなったせいであると思われる。

 大衆に埋没してしまうことの恐れ、このまま老化・老衰と名付けられたクライマックスへ向けて、急降下するのだけは避けようとする全身全霊の抗いなのだろう。
 しかしながら同時、「自分は特別な存在なんかじゃない」ことを嫌々ながらも悟らざるを得ない時期になって来ているからこそ、現実逃避と自己破壊願望が組み合わさってしまい、それが露悪趣味のレベルを壮絶な速度で底上げすることになっているのだ。

 絶対的に止まらない時間の流れ、という強者に支配されているため、ルサンチマンを発症せざるを得ないのである。

 要はストレス解消であり、僕の露悪趣味は、アンチエイジングなのだ。

お笑い番組よりも、文化人のトーク番組を好むようになった

 ただ笑うのではなく、知的好奇心も同時に満たしたい。

 松本人志のラジオや、ブラマヨ吉田の出演番組など、キャラではなく喋りの質で見せつけてくれるものであれば、僕もその技術を盗んで日常で利用出来るから、いくらでも視聴したいのだが、見た目重視、キャラゴリ押しの芸人は見るに値しないと決めつけてしまう。

 どうせ笑うのであれば、明日に繋がる何かを得られる笑い方がしたいと、合理的に考えるようになったのだ。

自分が特別な人間でないということを受け入れてしまった

 取るに足らないありきたりなクズであることを悟った。

 26歳くらいまでは、「僕は神に愛されている存在であり、無限の快楽を享受する権利がある」などと気恥ずかしい夢物語を真顔で空想していたのだが、今となっては現実を直視するようになってしまい、希望が廃れた。

 理想は実現せず、どこまでも平坦な道を歩かされるのが人生であり、起伏が生じるのは現実逃避の妄想と内部感情のみであり、「ありのままの日常を寿命が尽きるまで歩かされるのだろうな」と厭世的な気分にやられるようになってきた。

 退屈という大病に罹患してしまった。

 そのため、腐敗した政治家や、賭け事で人生を破滅させる者、バックストリートで黒い生き方をする人々に心の底から共感するようになった。

 大人げなさ、気の狂い、自虐的行動に打って出ないと、マンネリという病魔に心身を侵食されて、朽ち果ててしまう。
 乙武、川谷絵音、浜田雅功など、恵まれた人生にも関わらず、不倫をやり遂げる天才たちの気持ちが痛いほど良く分かる。

 強大な退屈さ=虚無感であり、それを抱いている時間は死んでいるも同じだから、たとえ身の破滅を招くとしても、脳のネジを跳ね飛ばして踊り狂わなきゃどうしようもない、そうした辛抱ならない精神状態が存在する。

 綺麗に生きることが、人類に取って究極の拷問だと思い始めた。

父と母に感謝出来るようになった

 過去に血みどろの決闘や、縁切りトラブルがあったことによって、顔を見るだけで気分を害していたこともあるのだけれど、僕自身が落伍者というか、負け犬の大人になったことで、親に差し向けていた憎悪は自分勝手なものでしかなかった、と気づいたのだ。

 自分が生きて行くだけでも無理難題の事件が勃発して、詰み掛かることがあるのに、三人も同時に育て上げるというのは、並大抵の想いじゃ実現不可能なことである。

 若い頃はツラの皮だけを見て判断し、「余力があるのに子を雑に育てた悪人」という一方的な評価を下していた訳だが、実際のところ、親は多忙な職業人であった訳だし、日々、心理エネルギーが枯渇しているがために、負の教育しか施せなかっただけなのだ。

 だから親が悪いというより、親を取り巻いていた目に見えぬ複数の原因のせいなのである。

 そうした気づきを得られたことにより心からの和解を果たし、月に数度の外食をしたり、観光へ行ったり、愛犬の散歩をしたりと、仮面的ではない本心が浮き出る家族交流の機会が倍増した。

 考えることは救いをもたらす行為なのだと、知った。

どんな人間の葬式にも参列しないという決意が増強された

 父さん母さん爺ちゃん婆ちゃん。
 他に兄妹や親友、取引先の人まで含めて、お亡くなりになっても、僕はその悲しい事実について我関せずの態度を貫くと心に決めている。

 幼少時代の親戚付き合いにおいて、激烈に気を悪くした思い出が幾度もあるからだ。

 それに僕は、誰かがこの世から抹消されるのって、大して衝撃的な出来事でもなく、いつかは自分も消えゆく運命なのだから、「旅に出たの? そうなんだ」の一言で終わらせて良い事柄だと思っている。

 この辺の死生観は絶対に譲りたくないから、どんなに社会的評価を下げられたとしても、葬式には参加しない。

女子を獲得する努力を怠るようになってしまった

 デートというのは、結末の分かりきった平凡な小説を読むようなもので、見返りの少ない娯楽である。

 少しずつ相手との距離感を縮め、高揚感が増してゆく、胸の躍る恋愛感覚は喜びをもたらすけれども、それは成功した場合のみだ。

 恋心は水物だから、多大なる時間と労力を注ぎ込んだとしても、唐突に冷めてしまい、その瞬間に今までの投資が、全くの無駄になってしまうなんてことは枚挙に暇がない。

 こちらの心が冷え切って終わる恋ならば、損害は少ないけれども、熱病じみた愛の告白をしたのに、「あなたのこと嫌い。奢ってくれるから利用していただけなのよ?」と、にべもなくフラれると、ショックで寝込んでしまい、過去だけでなく未来の一部も捨ててしまいかねない。

 そしてリスク勘案の結果、女の子を追い求めることを引退するという結論が導かれ、安心安全に自分の心を震わせるコンテンツ(アニメ、マンガ、ゲーム)に走り出すのであった。

若者が怖いと思うようになった

 先輩を「くん付け」で呼ぶのが流行っていることすら、最近知った。

 新入社員なのに、古株役員を見掛けると、「おはようございます。ピピピくん」と大学サークル感覚で挨拶をする。
 気合いの入った若手だと、「社長くん」「部長くん」「雑務くん」と呼びつけるつわものもいるようだ。

 若者文化のイノベーション速度は物凄まじく、僕ら大人が固定概念に目を奪われているうちに、まったく別物の常識が育まれている。
 そういう経緯があることによって、プライベートで話しかけることに恐れを感じるようになった。

 あることないこと邪推してしまい、下手な発言をすると瞬く間に寒いおっさん認定をされてしまい、世代間の溝を深め、よりコミュニケーションが難解になるのではないかと考えてしまうのだ。

 そして彼ら若手は、中途半端な大人が大嫌いである。
 ネタにするほど特徴もない、尊敬するほどスタイリッシュでもない。
 そんな大人を見下し、「かわいそうなおっさんだな」「だな、あいつみたいな哀愁漂った年寄りにはなりたくないよな」「もはや笑えないもんな」と陰口を叩き、絶対になってはならないオヤジリストに名前を書き込む。

 こうした敵対思考というか、自己中心的な反面教師の作成は、僕自身も過去にやり続けていたことであるから、致し方ないことだ。
 若者はどうしたって、大人への攻撃性を緩められないものなのだ。

 それゆえに、若者への敵意が強大化した

 老害力を鍛えて、叩きのめす方針を固めた。

犬だけが信用に値すると思うようになった

 愛犬のダックスフンドだけが、僕の全てだ。

雑記・最近読んだ本

人はなぜ憎しみを抱くのか (集英社新書)

人はなぜ憎しみを抱くのか (集英社新書)

 

「見せかけ」だけが、世間では現実になっているのです。

 このように書いている訳だが、大人になればなるほど、世間のしがらみに苦悩し、気付けば嘘八百の人生を生きてしまうものだ。

 そして大人の人生というのは、老化現象のトーナメントみたいなもので、誰が先に老けるかの競争をする追っかけっこである。

 僕も既に実感しているが、人は体よりも心から腐ってゆく。

 これはなぜかといえば、いつからか世間の固定概念をなぞるようになってしまい、本音を抑圧して、必要以上に神経を尖らせ、他人に白い目を向けられないようにするためだけに生き始めてしまうからだ。
 毎日毎日、自分に嘘の暗示をして、自分ではない自分になってしまうため、次第に心を病み、壊れてゆく。

 それゆえに、気が狂ったように本音をぶちまけて生きている若者を見ると、嫉妬が加速し、烈火の如く怒る大人が大勢いるのだ。