ピピピピピの爽やかな日記帳

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ピピピピピの爽やかな日記帳

親の経営コンサル会社で働く20代後半、社内ニートの話

ピピピピピの爽やかな日記帳

女は「女」を使えるけれど、男は「男」を使えないという話 ジェンダー論

自己主張

 僕はどちらかといえば準強者男性だから、俯瞰思考を意識して持たなくとも、上から人々を見下ろすように考えられるため、公平な解を導き出せる自信がある。
 能力的な意味合いでいえば弱者男性だけれど、親の経営コンサル会社で働いているのと、手違いで無職になったら家庭内ベーシックインカムの発動を実施することを約束して貰っているため、総合的に強者だと思われる。

 このように、社会景気の変動くらいでは傷の一つもつかない僕だからこそ語れる、高みの見物的なジェンダー論を語らせて頂く。

大抵の会社において、女は「女」の仮面を被らないと、優遇も抜擢もされない

 つい先日、「女を使って成り上がった」という考え方はおかしい。男が若くして成功しても、「男を使って下克上をした」とは言われないのだからといった怒りの発言を耳にした。

 たしかにわざわざ、「成功おめでとう。可愛い女で良かったな」とアイロニカルな物言いをするのはナンセンスだが、しかしながら社会の実相面に即して考えるならば、偶然であれ故意であれ、「女」を利用したことによって、夢を叶える女のほうが数多い

 ここ最近までは、「女は家に引っ込んでろ」という専業主婦イズムが、過剰に跋扈していたのもあり、未だに女の労働環境は整っていないし、そもそもキャリアウーマンを理想とする女が少ない。

 そのため男女同権が進展する今でも、企業=男性基地という面が強いから、女性社員=お客様という見方をされてしまう傾向がある。
「だらだらと給湯室でソシャゲをやりながら悪口を楽しんでも良いから、余計なことはしないでくれ」と考えているおっさん社員がごろごろいる。

 社会監視の眼球に包囲されている大企業などであれば、また話は変わってくるだろうが、日本の99%を占める中小企業では、女性社員を職業人としてではなく、「女」として見ているものなのだ。

女が「女」を乱用することに文句をつけてはならない

 老廃したオヤジなんかだと、「女は信用ならないから、絶対に契約しないよ」と露骨な拒否を示すこともある訳で、仕事をする上で職業人としての女は、不利この上ないのは固い事実である。

 そうでありながら、「女」そのものを武器にした途端、矢継ぎ早に契約がまとまったりする。
 これほどまでに男性が支配する労働ステージというのは現金なもので、職業人としての女に用はないという暗黙の差別が、至る所に存在する。

 そのため、「女を使って成り上がった」という意見が出て来るのは止めようがなく、正攻法だと勝ち上がれないからこそ、女は「女」を演ずるのだ。

 こうした仮面被りの女を、「卑しい」と罰する者がいるけれど、そんなことは全くない。
 配られたカードをフル活用して、冷たい環境を生き延びようとするのは、生きとし生ける知性的生物である人間として、美しく誠実である。

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男は「男」という性質そのもので名を上げることは出来ない

 無論、ジャニーズやモデルなど、芸能界で生きる人を抜き取った話だ。

 可愛い女の子であれば街のど真ん中で、「ケラケラケラケラケラケラケラ」と昼夜問わず笑い続けているだけでも、ナンパ師やスカウトマンがわんさかと、ゴキブリの爆発繁殖のようなおぞましさで殺到する。
 女は、「女」そのものを販売可能だからだ。

 対照的に男は、繁華街にて一人で呵々大笑していると、あっさり通報されてしまう。

 極言すれば、男は「男」+何か、がなければ売れ残るが、女は「女」そのものを売りつけられる。

 とりわけ職場において男は、女と比べものにならないくらいに気を遣われない。

「女だから許してよ」は通っても、「男だから許してよ」は通用しない。
「これくらい出来て当然でしょ?」のラインが、女よりも遙かに高い位置にある。

 働く際に掛かるプレッシャーの総量が、男女ではてんで違うのだ。

 たとえ希有なブスだとしても、「女を虐めるのは許されない」という意識があるために、頭ごなしに叱りつける上司は少ない。

 それゆえに弱者男性は心を病み、妬み嫉みに囚われ、「女の癖に」「女尊男卑かよ」「女は女を使えてズルい」などと、声を荒げるのだ。

男性蔑視も女性蔑視もある程度は許されるべき

 色眼鏡を掛けずに眺めるならば、女たちは、男が牛耳る労働環境の中でどうすれば気持ち良く働けるかを検討した末に、「女」を前面に出して勝負することを選んだに過ぎないのだから、批判するべきでないことは一目瞭然だ。

 そうでありながらも男は、職場において「男らしさ」の発揮を強制される上に、それは大人の男として至極当然のことだと、半ば脅されながら業務を遂行しなくてはならないから、たまの息抜きとして軽はずみでトゲの鋭い毒言の一つや二つ、吐きたくなる気持ちも痛いほど分かる。

 その結果が、「女を使って成り上がった」という女性蔑視に繋がっているのだ。

 そこに含まれているのは差別感情ではなく、社会の歪みに対する憎悪、心的な救済を求めるSOSなのではないか。
 反フェミニストによる見下し発言なんかではなく、歪んだ日本の環境が生じさせた嘆きの叫びと考えられる。

 それに対して、凄まじい怨念を持つ女が登場するのは、彼女たちも日常生活の中で「女」を振りまかなくてはならないことに疲弊しているからだ。

 つまるところ社会環境の被害者同士が、「疲れたぜ!」「疲れたわ!」と心の限界を主張しながら、殴り合っているということだ。
 似たような人々の争い。類友の決闘。
 昔から良くある、一般庶民による伝統的な行事だ。

 歪な社会環境の重圧によって、狂わせられている男女が増え続けているから、分かりやすい敵をイメージして叩くというストレス解消行為が頻繁に行われる訳で、一線を越えない限りは、許されるべきなのかもしれない。

 今の時代は、自分の性別に消耗している者だらけなのである。

雑記・読んだ本

脱貧困の経済学 (ちくま文庫)

脱貧困の経済学 (ちくま文庫)

 

「世間」に後ろ指をさされない生き方をしている人は守るべきで、後ろ指をさされるような奴は自己責任――中略――こういう日本的な空気とでもいうべきもの。それがいちばん怖いんです。

 良くこの社会では、男にチヤホヤされていた女の子が老いぼれて転落すると、「ざまあみさらせ。自業自得だ。地上の地獄をとくと味わえ。歪んだババアの絶望はおいしいぜ」と猛バッシングをする人が登場するけれど、僕が思うにこれは、因果応報ではない。
「女」を利用したことによって、男の心を奪って幸せな夫婦生活を獲得した者の方が遙かに多い訳で、落ちぶれたババアは単純に巡り合わせが悪かったという、運の問題だ。

 確率論の話に、努力不足とか精神的善悪とか、こうした可視化不可能な曖昧模糊としたものを組み込んではならない。

 とはいっても、邪道に人をあざ笑う指さし族を、絶滅させるのは困難である。

 だからこそガチャを高速で回すように、「女」を過剰に売り込んで、幸せに繋がる何かを数多く取得するのが良いだろう。

どんどん存在を否定されると働くことへのハードルが高くなっていく。

 たとえば無能な可愛い子がいるとして、その子が「女」としての自分を全て捨てて、仕事だけに打ち込むことをしたら、否定され続きの人生に突入してしまい、心をやられてしまうかもしれない。

 でもその途中で、封印していた女子力を解放したら、社内評価が一変する。

 人生というのは、様々な形で自分を売りつけることで、豊かになってゆくものだ。

 そういう訳で、売れ行きの良い要素を隠すのは非常に勿体ない。
 可愛い、美しい、お嬢様、天然キャラなどなど。
 そうした売り物としての価値が高いものを実演販売した方が、手っ取り早く幸せになれる確率が高い。

「女」を抜きにして、ただの人間として働くことを目指すと、有象無象の能なし認定される子も出て来るのは間違いなく、それを回避したいのであれば、女子力を乱用すると良い。

 21世紀の今でも、勝てば官軍負ければ賊軍の社会原理は生き残っている。
「女」を利用すれば勝者の階段を上ることが出来るのに、「俗悪な存在許すまじ」という屈折した信念のせいで、持たざる者が溺れ苦しむ奈落に落下するのは、もったいない。

成功体験という自己防御――中略――今の立場にいる自分を肯定することによって、罪悪感から解放される、という考え方が広がっている。

 幸運という力を見ないようにして、自分の実力だけに焦点を合わせて語っている人は、思いの外たくさんいる。

 中小企業でそこそこ出世している女子社員の中には、「あなたが成功しないのは、「女」の自分に逃避しているから。あたしは「女」ではなく職業人として、男なんかよりずっと努力した」と偉そうに喧伝する者がいるけれど、それは違う。

 多分に運が働いてるし、多分に「女」だからこそ配慮されているし、そうした複合的な要因が後押ししてくれたからこそ、努力が意味を持ったのである。

 成功論なんてのは、自己正当化のための言葉遊びに過ぎない。

 こうしたバイアスに狂った発言を、地位のある者が平然と口にすることが多いから、努力絶対論みたいなものが浸透してしまったのだ。
 それを放置したことで、弱者男性、弱者女性のメンタルが崩壊し、互いに蔑視し合う、男女のいがみ合いが深刻化したのである。

雑記2・個人的な女性優遇体験と諸々

 僕は数年前、小規模事業者への提案営業をやっていた。

 そこでは、とあるチームのマネージャーだったのだけれど、部下の中に、歩くだけで星が瞬いて見えるほどの超絶美人がいた。
 だが、筆舌に尽くしがたい怠け者であり、壮絶な天然っ子であった

セグメント? PDCAサイクル? 定性的? 定量的? KPI? なんですかそれ? 日本語でお願いしま~~~す。眠くなってきた

 あざといアヒル口を作りながら、くるくるシャープペンを回して、聞き耳を立てずに窓の外にいるスズメにウィンクするようなやる気のなさ。
 複数人の上司がホワイトボードを利用していくら説明しても、「うーん。もう分からなくなったので、また聞きますね。疲れてまーす」と、ただただ可愛い返事をして聞き流す。

 だけれど、笑顔一つで全て許される可愛さであった。

 極端な話、ただ座ってスズメを見ているだけで給料を貰っていた。

 しかし僕を始めとした男性社員は、その子の「女」としての可愛さに癒やされることで生産性が上がり、結果的に給料も増えたことで、感謝の気持ちしかなかった。

 そのときに僕は、働くということは直接的に成果を生み出すことだけではなく、こうやって周囲に好影響を及ぼし、全体の成績をアップさせることでもあるのだなと痛感した。

 冷たく言えば、その子から「女」の要素を抜いてしまえば何も残らないのだけれど、女に生まれたのに、わざわざそんなことをする必要はない。

 はっきりいって、これは優遇ではなく、可愛いという仕事をこなしたことに対する、正当な報酬なのである。
 可愛いという働きに対する対価――職業人としての働きをしなくても良い権利+給料を渡していたということだ。

共同幻想である社会に負けないために、自分の特性を最大化するべき

 今なお世間には、「男はこうあるべき! 女はこうあるべき!」という思想が根付いている以上、公平に見て貰える機会は少ない。

 そのような不条理に抗うために、持ちうる武器はぶんぶんと振り回した方が良い。

 差別は根源的なものだから、絶対になくならない。
 そうした事実に嘆くのは時間の無駄である。

 配られたカードで勝負するのは当然だから、可愛いならばブリッコとボディタッチの連続で売れっ子声優になったって良いし、ブスなら卑屈な詩を綴ってファンを集めても良い。
 なりふり構わずに夢を実現しようと藻掻くことが、己の生に対する、一番の優しさだ。

「みっともない」とか「はしたない」とか「大人げない」とか、こうした言葉をむやみやたらに乱射して、躊躇した生き方をすることの方がよっぽど、不誠実である。

 自己特性を最大化して豊かになることを目指すべきなのだ。

 女は「女」をいくら使っても良い。

 そうした生き方を小馬鹿にしながらも嫉妬する女がたまにいるけれど、そういう厭世主義者は不幸せになりがちだ。
 なぜなら自分を生きていないから。
 世間体に組み込まれて自我を失っている。

 つまり嫉妬深い人というのは、「個」を失っているに等しく、世論に操縦される機械なのだ。

 大事なのはキレイに生存することではなく、幸せを継続することだ。