つまり僕だ。
自分語りしかしないのではなく、自分語りしか出来ないのである
能力不足であるから現実社会でつまはじき者にされ、自己肯定出来ぬままネットの世界に逃げ込む。
そうした人間がこれから何をしでかすかといえば、他人に認めてもらうことが目的の何かしらだ。
強烈でありながら脆い自己愛に突き動かされている状態なのだから、必然的に助けを求めて自分語りをはじめる。
これが僕なんです。僕のすべてを出し尽くしました。あとは残さず食べて下さい!
こうやって無責任に自分の情報を投げ込んで、それを他者に味わってもらう。
無能な者にとっての現実は、猛毒に溢れた地獄である。
だからネットという避難所に来たのだ。
その中のブログサービスはガスマスク的な役割を果たしてくれるし、文章を流し込んでいる間は生きている実感を得られる。
自分語りだらけのブロガーとは、救いようのない底辺の存在
出来ることが他にもあって、迷った末に自分語りする選択をしたのではない。
自分語りという道しか残されていなかった。
そのため、渋々自分語りをしている。
ただただ泣きじゃくりながら、笑顔の花が咲いたような記事を書く。
それしかやれることがないから。
嘆きの川に落ちる寸前であり、指一本で落下に耐えているような状だ。
炎上させたいのではない、救いを求めている
僕らのように冥界と隣り合わせの人間は、炎上にも荷担しやすい傾向がある。
それはそのはずで、一般社会の流れに乗れず、溺れるようにしてここに来たのだから、せめてこちらの世界にある流れぐらいには乗りたいと思うものだ。轟々と燃えて流れる火の川を作り、みんなで飛び込んでわいわい焼死体になることを目指す。
給料日ぐらいは焼き肉を食べようって感覚に近い。
つまり死体も同然な僕のような人間にとって、炎上騒ぎを起こすというのは、ちょっとした息抜きなのだ。
誰であれ、せっかくの休日にゴロ寝しているのを邪魔されたら激怒するはず。
であるから、炎上という息抜きに参加している人を許してあげて欲しい。
疲れている人生の中で、たまに豪快に気を晴らしたくなるのは人間の摂理だ。
なるだけ温かい眼差しとメッセージが欲しい。
無能で何も成し遂げられなく何者にもなれない人間。
そうした人々の炎上なんて、線香花火のように小規模なものだ。
それすらにも罪悪感を感じながら、続けざまに火をつけてむりしゃり心を潤している。
内容や言い回しだけに囚われず、どのような人間が書いたのだろう? と想像を膨らませて欲しい。
元旦に僕のじいちゃんが、ウゥーウゥーと唸っていた。
餅が喉に詰まったようなのだ。
僕らの悪巧みなんてのは、じいちゃんの呻きのようなものであって、実は救いを求めている。
燃え上がった炎ばかりに集中していたら、人命が失われるかもしれない。
もう少し広い心で、出来れば無限の受け皿を用意して、僕ら底辺を胸一杯に受け止めてくれ。
炎上する記事とは、預言書なのだ
この先とんでもないことになりますよ、僕がどうなっても良いんですか? 絶対に後悔しますよ?
深々と読み込めば、そのようなことが書かれてある。
この真実を知ろうともせずに、もしくは知っているのに攻撃的なブクマをみんなでするのは、お見事なまでの暴力と変わらない。
みんなで罪を共有して楽しいのだろうか。
共同正犯の成立要件に該当する――かもしれないと思ったが、きっとしないから、どうしようとも個人の自由だが、良心の痛みを感じないのかが気になる。
僕ら底辺のささやかな悪意に過剰反応する人々は、一度鏡を見てみなよ。
そして次に、グーグル画像検索でリチャード三世を調べてみると良い。
そういう顔してるよ。
これからは仁義なき戦いのように、仁義あるコメントをよろしくお願いしたい。
自分語りによって成り上がったブロガーの欠点
病んでる系でも、意識高い系でもなんでもいいが、過剰に自分を売り出し続けていれば、いつか誰かの目に留まる。
人間は生きている限り、不安と悩みに追われているから、必ずどこかのタイミングで助けを求めたくなるものだ。
そうした時、ふと覗いた記事に自分を包み込んでくれるような力が備わっているように思えたら、書いた人のファンになることもある。
つまり規模を問わなければ、どんなに文章がヘタクソなブロガーでもファンを作れるということ。
誰かのファンになる。それは必ずどこかで、心を動かされたからだ。
突き抜けたバカ加減が笑えた。
飾り気のない罵倒文にスカッとした。
禁断の愛について書かれていて、思い切って妹とキス出来た。
人はこうして、種類は違えど喜びを持って誰かのファンになる。
そのため、ファンだと名乗ってくれる人々の大半はとても優しい。
長期的にブログを運営していく中で迷走して、当初のコンセプトとは真逆の道を進む記事を書くようになっても、それはそれで面白いと褒め称えてくれる。
社会通念上イケないことをしても、「君って奴は(笑)」と軽く受け流してくれる。
それどころか、新しい価値創造を試みるクリエイティブな人と思われ、拍手されてしまう。
既存の概念を打ち破り、斬新な世界を生み出せる力などまるでないのに。どころか一般教養すらないから、中学生レベルの問題ですら満足に解けない。
然るべき時(幼少期や学童期)に、学ぶべきことを拒否したため、未だに幼稚な主張しか出来ない。
しかし幼稚な主張も度を超えると、熱量のある良質な文章だと判断してくれる人もいるために、幼稚である自分を嫌いになる必要がなく、幼稚を貫いてしまう。
そうすると理屈が通っていなかろうとも、思いの丈を思う存分ぶちまけていればよい、という破れかぶれなまでの自信が沸き上がる。
自惚れるほどに、他人への心配りを捨てた記事を書くようになっていく。
悪い方向にではあるが尖ってくる。
そうなれば、論理的に破綻した文章だろうが、どこか清々しくて一部の人を魅了する。
悪質な成功体験が脳に刻まれ、また次も似たようなゲスい方法を用いてファンを獲得。
こうやってただの自分語りブロガーだった人間は、自分を語れば語るほどに屈折していく。
嘲笑すらも生きる糧に変えている。
自分を語ることだけで居場所を作るってのは、犠牲のつきまとう行為なのだ。
自由な自分語りによって、不自由な自分が形作られていく
自分語りは、自己完結する。
どこからはじめて、どこで終わるか。
すべて思うままで、制約も制限もストレスもない。
以前、『男子高校生が嫌いだ』という趣旨で一万文字ぐらい書いたことがある。
文字数だけに注目すると大変そうに見えるが、つまるところ愚痴の垂れ流しに過ぎないと考えれば大したことない。
ジャスコのフードコートに一日中座っていれば、文字数換算十万文字以上の悪口を言い合うJKをたくさんみつける。
それをわざわざ書き込むか、書き込まないかの違い。
もっといえば、現実で鬱憤を晴らせているか、晴らせていないかの違い。
どうにもならないモヤモヤ感を、まるで火だるまが水を求め荒れ狂うように書いているだけなのだ。
それほどに、自分語りブロガーは楽なポジションを得ている。
そして自由である。だが自由であるはずなのに不自由になってくる。
好き放題書いているはずが、後で記事を読み返すと、どれもこれも思考の出発点や終着点は似ていることに気づく。
自由に生きて良いのに自由に生きられないと、自由が辛くなってしまう。
奴隷は苦痛だが、そこから解放されて生きるにしても底知れない努力が必要になってくるため、下手すると更なる苦痛に襲われるかもしれない。
自由を満喫するには才能が必要だ。
そうした事実を認めたくない、だから大いにふざけなくては、と考え始める。
自由になれ、という重たい命令を自分自身にするようになってしまう。
自意識が過剰になり、胸の奥から脅迫されている気分に陥る。
こうなると腕以外の部位をナタで切り落とされたかのように、文章を書くぐらいしか出来ない。
自由こそが不自由の源泉なのではないか?
ふとそんな思いを持つのだが、その頃には少なくない読者がいて後戻りが利かなくなっている。
その状況に酔っ払い、無理な負荷が掛かっていることを意識の元から弾き飛ばしてしまうからだ。
自由とは、どうあがいても手が届かない小島瑠璃子のような存在なのかもしれない。
そんな時代を経て僕は、メトロノームの横揺れを見続けるように単調な生き方の素晴らしさに気づき、幾度となく涙を落としながら、自分が首輪をつけられ、世界中にある学校の校庭で犬のように走らされる妄想を見てうっとりしていると、自分のやってきたことはすべて奴隷になるための事前学習に過ぎなかったのではないかと思え、自分のやってきたありとあらゆることが自分の人生に対して全力で屈服するためなのだ! それはそれで気持ち良いではないか! 昇天せんばかりである
機械人形になったように、右左と視線を走らせるだけ。
こんな時間が非常に心地良かった。
僕は根っからの奴隷気質であるから、かっこつけて手枷足枷を外して走り出しちゃいけないのだ。
朝昼晩と納豆ご飯を食べて、おやつに豆乳クッキー、寝る前にココアを飲む。
この繰り返しで満足だ。
回し車の中で力尽きるまで走り続けるモルモットのように、ただ生きようと思う。
長々書いてきたが、とどのつまり僕は犠牲者なのだ。
よって神はすべての罪をお許しになる。
日記
ツクモでSSD搭載のBTOパソコンを購入したんだけど、速度が素晴らしい。
15万円ぐらいだったが、激安と思えるほどに満足した。
27インチのモニタも二つ用意したから、ありとあらゆる作業が気分良く行える。
あとIPAD PROも手に入れた。
面白そうだったり、問題ありそうだったり、病んでそうだったりする記事はすべてPDF形式でEvernoteに保存して見るようにした。
もう今となれば、パソコンで文章を読むなんて考えられない。
快適さが段違いだ。
僕がはてなブロガー全盛期だった頃は、13インチのレッツノートで読んだりしていた。
見た目と性能は素晴らしいが、ハードに読み書きするのには向いていなかった。
そのせいで、五分に一度、腰をとんとんしていた。
とても煩わしくて、二十四時間激怒していた。
溢れ続ける憎しみのエネルギーをガソリンにして他人の記事を読んでいたから、どんなほんわかしたものでも苛立ちが峠を越えてしまった。
やはり環境がすべてだ。