まず初っぱなから刺していくけれど、社会には世間一般的に見て非人間的な者が一定数存在している。
病んでいるからでもなく、環境の辛さからでもなく、酷い育てられ方のせいでもなく、だ。
であるからそういう問題を抱える人々を観察して、病的という判断をするのは生易しく、宿命的と呼ぶべきだろう。
先天的な定めであるから、軌道修正は不可能なのだ。
そんな希な不運によって、社会的存在として持ちうるべき能力が弱化してしまい、自然と厄介者になってしまう。
まず一番に知るべきは、彼らは狂っていないし、病気でもないということだ。
煽りや罵倒ではなしに、真にかわいそうな人たちなのである。
それゆえに精神科へ足繁く通おうが、野菜瞑想運動の三点セットを取り入れた健康優良な過ごしたかをしようが、本質に一切の変化を加えることは出来ない。
だから我らがやるべきは、温かく見守ることのみだ。
無理と不利に押しつぶされた悲劇の人を、救い上げてやろうとするのは辞めた方が良い。
手を差し伸べることに意味がない。
石像を鞭打ちしようが、一言も言葉を発しないのと一緒だ。
不可能を可能にするなんてのは神でも不可能であり、我らの挑戦すべきことではない。
脳の損傷や遺伝子に起因した異常行動は改善不可というのは、誰もが知りうることであろう。
海馬を切除すれば物事を覚えたり思い出した出来なくなるのと同じく、生まれつき必要なものを欠いている人は、困難な社会生活を強いられるのは当然の成り行きだ。
我らが彼らの微細な行動に背筋を凍らせるように、彼らも我らという普通人の行動に恐れている。
つまり彼らは、もっともかわいそうな人たちであり、なお一層に国の徹底サポートを必要とする人たちなのだ。
同情するに値する存在ではあるもの、我ら普通人にだって心の葛藤は存在し、日々を必死に生きているが為に、異常人の幸福を願ってばかりはいられない。
端的に言えば、どうでも良いのだ。
目の前のことで手一杯なのに、心の機微を分からない人たちと、大変な付き合いはしてられない。
そもそもが、我らと彼らの交流はいつであれ利益相反のそれであり、どちらが必ず損をする。
であるから我らは遠目に見守ることだけで精一杯だ。
ゆえに国家がなんとかなるしかない。
我らは彼らに対し、誹謗中傷、罵倒、呪詛の言葉すら吐くべきではなく、それをしようものならいつぞターゲットに定められるか分からぬから、身の安全を確保するためにも言葉を慎むべきであろう。
彼らは常に逸脱している。常軌を逸している。
世俗一般に照らし合わせた場合の話ではあるが。
そのために彼らが思考することで得た普通は、我らからすれば普通ではない。
その結果、歪む。
真剣に誠実に思案した結果が、これか、と嘆くのだ。
そして彼らのズレはより深刻になり、それを改善しようとすればするほど自己否定された気分になり、憤慨してしまう。
彼らも彼らなりに頑張って生きている。
でも残念ながら、現在の世間には適応出来ずじまい。
だから彼らは、自分の異常さを宿命と捉え、これは試練なのだと捉える思考が必要なのかもしれない。
ここまで彼らが傷ついてしまうようなことを述べてきたが、こうした綺麗事抜きの感覚を持たないことには、未来的により一層悲惨な現実が待っているであろうと予測出来るがために、曲がりない本音を吐露させてもらった。
雑記
人生において最重要なのは、絶妙な空気読みであり、正しい正しくないではない。
善悪とかそんな哲学的な話ではなく、相手が今何を考えているかを察知し、心地良い関係を築く方法論、実践力がなければ、人生は積んだも同然。
逮捕される人の特徴などに目をやっていると、正しさに固執してしまう意固地さが極めて強い。
否定されるのを嫌がる繊細さゆえに、他人を無慈悲に否定して貶め、恐怖させ萎縮させることにより、自分を狂気的に守ろうとする。
これは愚かで狡猾で理性なき、地獄の底で縛られるべき人間の行為ではあるのだけれど、悲しいことに故意でなしにそれをやってしまう者もいる。
それはやはり先天的な不運であるから、ある程度は自縄自縛し静寂の中で孤独に暮らしてもらう必要があるのかもしれない。
これは差別ではなく区別されるものであり、最も優先するべきは平和な社会生活だ。
野生の生物は言葉を覚えられないのと同じく、そういう者たちは世間一般的な普通を熟知出来ない。
定めのようなものであり、死ぬまで理解は不可能。
感想
女子は男子を恐喝するぐらいでちょうど良いなって僕は思うな。
そういう純粋さを持った女の子の方が、苦労が顔に出ていなくて綺麗さっぱりとした美しき女神様のような顔をしているから、こちらとしても心がうきうきして、なんとか彼女を攻略してやりたいと思いながら思念して、あの手この手を考えているうちに頭脳も開花してきて、今までになかったアイデアとやる気が沸き上がり、人生に活力が生まれて生きるのが楽しくなるからだ。
それに、たとえ男をATMに思っているような女子であれ、仲良くなってしまえば所詮は人間であることが判明するし、男からただ金を奪い続けるという非道な行いは出来ないんだということが分かって、微笑ましくなることが多々ある。
微妙な人情の機微を感じ取りながら、うまいこと互いに気持ち良くなれるように騙し合って生きていくのもまた一興。
騙し騙され、フりフラれ、逃げ逃げられる忙しさこそ恋愛の醍醐味だ。
それが人間らしさってもんだ。
正論は恋愛のパーツじゃない。
感情を持った人間は、理不尽や見栄や演技によって、関係を築くんだ。
まともじゃない状態を楽しめない人は、恋に向いてない。
理不尽は恋愛の友達なんだから。