彼らの講演会などに参加すると、結構な確率で、伝える気がそもそもないような、ただの音読みたいな話を聞かされることがある。
しかも経営者向けの講演会なんかでも全く同じ振る舞いをしている。
目の前に大勢の、志高い者たちがいるのに、耳を澄まさないと聞こえないような声で喋る。
目も死んでいる。声も死んでいる。生きているのかすら分からないことがある。実際に死んでいることもある。
肩書きがなければ社会不適合者としか思われても仕方ない程度に、自閉的というか、やる気が乏しい。
ああした誰かのために喋っている意識がなさそうな人々は、一体どういう思考で日常を生きているのだろう。
共感といったことにエネルギーを使わないようにして、全ての力を研究対象に注いでいるのか。
世界の事象を観察することは好きでも、自分には一切興味がないから、他人にどう思われようと気にしないのか。
彼らのオシャレとは無縁な服装や、伸びきった髭、ヤニだらけの目元、脂塗れの眼鏡、シャツについた米粒などを見ると、そうとしか思えなくなってくる。
大学の講義みたいに、こなしの作業になっているようなものであれば、まだ百歩譲って飽きたんだろうなと考えられる。
けれど僕の働く会社だとか、そういう外部から人を呼んで行うタイプの比較的新鮮と思われる場合ですら、たらたらと平日の羊みたいな気力の乏しさで喋り続ける。
やはり人に見られているとか、人に良く思われようとか、人に喜んで貰おう、という意識は一切ないのだろう。
ある意味、羨ましい人生である。
人間という生物は、自分を良く見せたいと思うからこそ心を病んで死んでゆく生き物だ。
自意識過剰と後悔は密接に結びついているものであって、人は自分を愛し過ぎると、得てして目の前のやるべきことを上手くこなせなくなる。
自分のことで手一杯な人は、能力不足で落ちぶれる場合が多い。
そう考えると優秀な学者や研究者たちは、クリエイティビティのために自己愛を打ち捨てて、興味の対象のみに心理リソースを流し込んでいるため、戦略的に会話などの手を抜いているのではないかという仮説が立てられる。
もしかしたら彼らは、幸せな人生を生きる天才なのではないか。
人間の悩みの99%は、自己愛過剰からスタートしているものだ。
つまりそうした悩みの源泉と真逆の方向に自ら向かい、そこで生きる覚悟を持っている人間は強いということになる。
そうした強さを持たない人間は、社会に貢献するような発見をする学者や研究者にはなれず、いつしか自分のことばかり考えて堕落し、弱音だけを吐いて生きることになってしまうだろう。
間に合わせの結論としては、実は総合的にやる気がないのは、学者や研究者ではなく僕らの方だということである。
持ちうる有限なエネルギーを注ぎ込む対象が違うだけなのだ。
であるから彼らの講演中などに、やる気がないという感想を持って良いのは、総合的に見てやる気を継続させた人生を送ることの出来ている人間だけである。
一部の行動だけを見て判断するというのは非常に短絡的かつ棚上げ的で、今現在の自分に得をさせろという強奪魔紛いの思考をしているということだ。
学者や研究者は、自ずから社会不適合な生き方をすることによって、無駄な力を使わないと決心している。
人生そのものに対する頭の使い方が上手い人間なのではないか、そう思った。

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