共同体意識の欠落が諸悪の根源
そういう人たちは、簡単にいえば共同体意識が薄い人々であるから、意識するしないに関わらず自然と、人との関わり合いを蔑ろにする人生を送ってしまいやすい。
それはつまり、愛のある場所に帰属している感覚を忘れたも同じ。
家族関係でも友達関係でも暴走族でもギャングでもどんな集団でも構わないのだが、そうしたコミュニティの中で、自分が他人を必要とし、他人が自分を必要としているという喜びを持てない人間は、いつしか愛情をなくしてしまう。
仕舞いには、『誰かのお陰で自分という生命は成り立っている』という人間の大原則を失念し、鬼人と呼ばれる自己中心主義者に成り果てる。
人間関係に問題のある人が、「性格悪いよね」「屈折してる」「あの人って危なそうじゃない?」と陰口を叩かれやすいのは、人とのキズナが不足した日常の中で、親愛感情を衰えさせてしまっているからなのだ。
愛情を失った者は、他人を軽視するようになる
インターネット上で、特定の個人を痛烈に批判し続けている人などを観察していると良く分かるが、そうしたラブイズデッドな人々は高確率で、家族に恵まれていなかったり、人を信じられなくなる事件に遭遇した過去があったりする。
そして愛情を喪失した人は、人の感じる痛みに鈍感になってしまう。
「私はひとりぼっちだ……。地球上で私は一人だけだ……。街中には、人形達が私に嫌みを飛ばすような笑みを浮かべて歩いている……。私だけ、私だけ、私だけ、お一人様だ……」
これは行き過ぎた話なんかではなく、愛を捨てた者は人間らしさもなくしてしまうのだ。
愛情が消えて生じた心の空席には、憎悪が着席する
自分の存在価値について各人がそれぞれ考えるとき、大概の場合は相対的であることが必要であり、誰かに教えて貰うような感覚で自分とはどんな存在であるかを規定するのが常套な手段だ。
こうした自己評価をする際に、「自分なんて、どこの誰にも注目して貰えていない」というラブイズデッドな思考をしてしまうと、自己否定なり破壊願望なり被害妄想なりを極大化させて、「最低な世界だ。この社会も人間も全部ひっくるめてぶっ壊してしまえ」と発憤してしまいかねない。
配慮なく言ってしまえば、自己肯定感の低い人は、世間一般の価値尺度で測ると、性格が悪いことが多い。
しかも共同体意識を欠いている人は、愛情を失っているだけでなく忌避しているパターンもまま見られるから、他人の愛を無意識に拒否してしまい、「自分は社会の被害者だ!」という悲劇のヒロインにもなりやすく、他人に厳しい傲慢な存在になる可能性が極めて高い。
そうして、「自分は悪くなんかないのに……」と自己暗示ばかりする人生を送ることになり、社会を敵視し始めて、気づけば人々を震え上がらせるような危険計画を頭の中で立ててしまうこともある。
その結果が、自己責任と危険思想をばらまく厄介者の誕生ということになる。
世の中の厄介者の大半は、愛情を失ったナイーブな人
愛情を失った生き方をしている人は何をしでかすか分からない。
だからこそ、国家単位でそういう人々を救済するような仕組みを作る必要があり、ラブイズデッド民を放置しておくと、ウォーキングデッドよろしく日本の治安が悪化する可能性すらある。
愛を受け入れる訓練の機会を提供して上げないと、自他共に不幸せを撒き散らすゾンビだらけのバイオハザード世界になってしまう。
ゆえに孤独というのは、深刻な病気という考え方も出来、いつまでも寂しい引きこもりニートなどをしていると次第にコミュ力を失い、いつか親にも先立たれ、空虚な人生の中で愛が枯れゆく。
人生において最も大切なのは愛
これは何も恋愛的なものだけでなく、簡単にいえば誰かと助け合っているような感覚のことである。
僕は18歳の頃に、北海道の石狩という地域で、暴走族の集会を遠巻きに見たことがあるのだけれど、彼らの目力は凄まじく、肌もつやつやで、人生に生き甲斐を感じていること間違いなしの幸せなオーラを放っていた。
それは暴走行為によってアドレナリンが出ているからだけでなく、同じ夢を共有する強い繋がりのある共同体の中に属して、愛を感じているからなんだよね。
パラリラパラリラ! というバイクコールは、愛の生産される音なのである。
愛があるからこそ、チームと総長のために身を投げ打つ覚悟を持てるというものだ。
そうした共同体意識の強いヤンキーたちが、西野カナだとか湘南乃風だとかが放つ、愛のメロディーにハマりやすいのは、愛情を知り尽くしているからこそなのである。
だから僕はマイルドヤンキーと揶揄される人々を見て、「これこそが人間のあるべき姿なんじゃないか」と思わずにはいられない。
大好きな共同体に身を沈め、誰かを求め誰かに求められる、愛の弾ける人生こそ最良。
会いたくて 会いたくて 震える 西野カナ
(病んでいる者は現実を歪ませているからネガティブになるのではなく、一般的な人と比べて現実を真っ直ぐに直視しているからこそ、病みやすいということが説明されていた。これを『抑うつリアリズム仮説』と呼ぶと書いてあった。だからインターネット上には、「凄い知的で頭の回転も速いのに、病んでるしコミュ障なの? その能力を三次元でいくらだって活かせそうじゃない?」と思わせてくれる人が沢山いる。彼らは現実を直視して論理的に物事を綴れるからこそ、ネット上では聡明で隙のほとんどない人間になれるのだ。しかし現実ではやはりある程度の狂い、つまり自分を都合良く評価して堂々と突っ込んでいける人間ほど魅力的に思われやすいから、それが出来ない彼らは社会的に失敗し、二次元に逃げ、そこでインテリジェントな発信行為を行ったりするのだろう。ネット漬けの生活が人類にとって普通になったお陰で、病んでいる人が自己実現を図りやすい社会になったということだ。認知の歪みという言葉はネガティブに捉えられることも多いが、幸福な人ほど現実を歪ませ、自分を過大評価しているのである。
読みやすくて面白い本だった。うつ病の人は、『相互依存性という逃れることのできない蜘蛛の巣』というエンパシー(共感・感情移入)能力がすこぶる高いことが多く、それによって愛されるリーダーになりやすいという説や、躁うつ病の人は、『さまざまな経験を求める特性(経験への開放性』によって想像力を強め、独創的なアイデアを閃く才能を持ちやすい説など、興味深い話が多かった)