ピピピピピの爽やかな日記帳

【遺書の撤回報告】僕は生き返った。躁鬱病の大爆発でした【双極性障害1型】

不機嫌躁病の大暴走が起きた

つい先日、約20万文字の遺書を当ブログにupし、ちょっとばかし騒ぎになった。

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この4ヶ月間、お仕事――専業YouTuberの活動を停止し、一度も風呂に入らず、一回も掃除機を掛けず、ろくすっぽ外出もせず、イカれたメンタルで文章を数十万文字……書き殴っていた。

全部ぶった切って雲隠れしていた為、ざっくばらんな推定収益、50~100万円以上の損害だ。

ぱっと浮かぶ原因としては、破壊的な躁状態――僕に備わった双極性障害1型の、最もクレイジーな自己破滅性のエネルギーが、どばどばと大噴火したからであります。

しかし精神錯乱により、そこに辿り着くまでのプロセスや、「異常行動の発火点はどこにあるのか?」への解答はあやふやなのだ。

僕の胸中にある小宇宙でふわふわと、ぼんやりした真意っぽいモンが、いくつも四方八方で浮遊している。

生存欲の慌てふためき、大パニックかなあ。

いいや、ぼやけながらも、躁転と遺書公開の理由は分かっている。

この数年、幾度も心で手を合わせ、「人間社会から遠ざかる透明さを得て、静止画じみた時の中でチェレンコフ光を見たいなあ」と渇望して生きていた。

きっと、ありったけの力で僕の願いを叶えようとしたんだ。
何者にも縛られぬ躁のバイタリティが、思考のパラダイムを真正面から打ち破りに行った。

顰蹙を買うだろうが、不運が重なれば死ぬ可能性のある躁の時も、断続的に重たい鬱が襲来する時も、愛と憎しみが交錯する遺書を20万文字以上執筆している時も、「生きていて良かったなあ」と嬉しさの涙が零れて来て、「生物として幸せだなあ」と思わせてくれる現実が、今までにない鮮明さ――僕を多彩な色彩で歓迎してくれた。

『喜怒哀楽』『幸不幸』『愛憎』『躁鬱』『発達障害』『生きたい』『死にたい』なんて、人類限定の妄想的所産でしかない。

そこに寄り掛からず、本物の現実をえぐり出した今日この日を……リアリズムの連続を、一匹の動物として駆け抜けたんだ。

「惰性に染まった自分が嫌だなあ。痛み、苦しみ、自己犠牲、全てが剥き出しの現実に着地して、血を流した本物の価値提供で稼ぎたいなあ……いやいや、それも違う。商業主義がどうこうの前に、自分が自分を好きでいられる生き様と創造性で戦いたい」と密かに思い続けていたが、へなちょこな僕はいつだって、自分を守りに守っていた。

変わりたいと祈りながらも、昨日と同じ今日がずっと、ずっと続いていて、もどかしくて涙も流せなかった。

でもある瞬間に突然、うなだれる僕の心にあいつが舞い降りて来た。
いち生物としては、『最高峰の正気』『最高峰の正常』と言えるあいつだ。
そう、人類の共同幻想内では、『病気』や『狂気』と判断されてしまう躁である。

僕の体内でぱきぱきぱきと音がする、卵の殻が割れてゆくんだ。

そうして、彼は僕の胸ぐらを掴んで絶叫したんだ。

「一度全部破壊しろ! 50万円、100万円の収益? 記念日に生配信をせねばもったいない? どこまでアホなんだお前? 惰性の死神、自己保守の悪魔に魂を売り払う、今この瞬間こそが最大の損失だろ! 中途半端なやり方で愚かなお前が変われると思うな。今の延長線上で、3年5年10年後に全力で笑えるのか? 善悪だ道徳だ倫理だ、一切合切関係ねぇから、本物の現実に向けてバンザイ突撃しに行けよ! 自己破壊の一つも出来ない奴に、自己犠牲から逃げ続ける奴に、誰かの心を動かす力が付与されるはずねぇだろ! 運良く大勢の視聴者に救われ続けた奇跡の軌跡を見返してみろ。浅ましいお前の足跡しかねぇぞ。本当にそのままでいいのか? 本当にこのままで終わる気か? 惰性で耳を塞がず、ちゃんと聞けよ俺の言葉を? 人間界では躁転と呼ばれるかもしれないが、全てのベールを剥がして俺を真っ直ぐ見ろ! これは躁転なんかじゃねぇんだよ! 痛みを乗り越えて真のお前と直面する、本物の現実世界だよ。本物の鮮やかさだよ。本物の美しさだよ。全ての痛みのど真ん中で歯を食いしばって勝負しろ! 己で己を木っ端微塵にせよ! 牙を剝いた魂で殻を突き破れ! お前そのものを破壊して死んでみろ! 弱さで歪ませた空虚な世界から抜け出るんだ! うずくまってないで飛び立て! 翼を広げた鳥になって飛翔せよ! 神の領域を超えるつもりで羽ばたけ! 露わになった本物の現実を直視せよ!」

常態化した人間風情の監獄から、躁の拳で壁をぶち破り、何事にもレッテルを貼らず、『喜怒哀楽』『幸不幸』『愛憎』『躁鬱』『発達障害』『生きたい』『死にたい』は、一つ残らず崇高な流れの副産物であり、あふれんばかりの恵みであり、痛みを覚えながらも喜びに辿り着いた。

「こんなに素晴らしい本物の現実と、本物の摂理をありがとう」と自分を誇りに思いながら、一匹の動物としてたくさん笑った。

「本気で生きるとは何か?」を肌身で実感していた。

僕は僕にとって大事な宝物を、躁鬱の揺らぎに躍り込んで掴みに行った。
だから、批判も誹謗中傷も届かない多幸感の頂上で、「みんなありがとう。何より僕自身にありがとう!」と、人間の範疇を超え、一匹の動物として本気で叫べるんだ。

――ここら辺を話し出すと長くなる為、続きは最終項目『20万文字の遺書を公開した真の理由』にて書き綴ります。

読者さんのコメント、『これは双極性障害の人の躁ステート時の典型的な発露に思える』はまさに的確で、気付かぬうちに別な人格と交換された……そう勘ぐってしまう凶暴なる時間であった。

これぞ精神異常の神髄というか、如何ともしがたい生命現象なのです。

つまり、心の奥で響き渡っているのが、生存欲求ゆえの「生きたい」雄叫びなのか、「確実な終わり」を志す死の欲動なのかは、かっちりと決められやしないのだ。

ただし直感的な話になるが、人間界だと躁状態は病的とみなされるが、動物としてはごく正常な刃向かい――生存率を押し上げ、心身の渇きを潤すべくやる死闘だと考えている。

現実界へ勇敢に飛び込んで、血だらけでも勝ちを狙う躁の背中は立派なのさ。

躍動する動物性のしなやかな這い上がり。

核心を突いているかどうかは、読み手の感性次第だが、僕が躁転をお洒落に表現するとこうなる。

ここらで忌憚なく物申してしまえば、先祖代々、愚かな人間共のエゴイズムで築き上げた社会――現実に偽装する集合的空想のレンズを取り外して、本物の現実を直視すると、正常とされる者達の方が妄想的であり、病気的であり、つまり文明そのものが連綿とした狂気なのであります。

僕がまだ死体だった頃――この記事をupる前にも、「もしも生きていたら不謹慎だよ、バカッターだよ、大人としておかしいよ」などのDM/コメントが山ほど届いた。

それってたかだか人類の感想ですよね?
真理じゃなくて、あんたらの発想ですよね?
動物界じゃ誰一匹、お前らに興味はないんだよ?

所詮、現実感覚の薄らいだ人間風情に、文明妄執のど真ん中で、妄語過多に何をどう言われようとも、なんの情感も働かないのさ。

せいぜい、妄言の大名行列――別名、人間社会で立派に生きるがいい。

――といった世界との対峙こそが、僕の躁状態の基本姿勢である。

そう踏まえると、いつも通りな意識の範疇では、「20万文字の遺書かあ。マネタイズもせず? そればかりか50万円以上の赤字だよね? 何故こんな事をやらかした?」といった自己追求の問いに、うんうんと唸っても仮の答えしか出せないが、『躁転≒たかだか人類共の主観的な物語を超越する生存戦略』と認識を新たにすれば、「あ~こういう事?」と合点承知が1%、5%、10%、じわりじわりと走りを速めてゆく。

「中長期目線で獲物、成果を得る為の企み? 遅くとも3年5年10年後に、必ず恵みの雨が降る狩りだよね? なにせ一回も躁転に裏切られた事がないから、絶対的な期待感に包まれているよ。ありがとう。神頼みなんかよりも有効で友好的な、確実な躁の巧みさに感謝申し上げます」と、真顔で盲信して躁に敬礼してしまう。

例の狂った所業(遺書の執筆から公開までの数ヶ月間)を、さくっと詩的に換言すれば、「酩酊に見せ掛けてやる、躁への敬虔なMaydayにより、低迷した僕の生命線に洗礼が施された」とでも書き記せる。

躁鬱スクラップアンドビルドってところだね。

僕は社会に飛び立って15年余り、身も心もぶちのめされた上で、「期待だ失望だ神様だ仏様だ」――ありとあらゆる責任転嫁を捨て去って、「自分を大事にしながらも破壊しよう! またいつか直せばいいのさ! 次のように考えよ! ぱっちりと目を覚ます躁の破滅性は、何事かを警告し、大切な事を思い出させ、しょぼくれの守りに徹してんじゃねぇよと尻を叩いてくれるのだ。畢竟、愉快千万に生きる為のメッセージなのさ!」と思い知った。

30代半ばにもなり、気付かされた事がある。

『ありのままの自分で生きる』方針はこれ一点を掲げるだけじゃ機能せず、「僕は立ち止まらない意思で走り抜く!」と、自己犠牲が大前提で心を燃やした瞬間、やっと魅力の煙が渦巻きながら日に日に、誰かの心にも火を付ける価値を芽吹かせる。

だからこそ、貧困の底からちょっとだけ階段を上がり、専業YouTuberで4年もウマい飯が食えたんだ。

病んでも堕ちるだけじゃないのさ。

アニメーション映画『サカサマのパテマ』よろしく、重力があべこべになったみたいに、他者からすりゃ、頭のおかしい不浄の人間が落下するだけに見えても、僕の心奥では不可視の急浮上が真っ盛りであります!

『尊さの盛んな破壊と再生』がテーマの病みの中で、自己の真価を発揮すべく、診断と深化と進化をマルチタスクにこなし、躁鬱の中心に芯を通そうと、走る走る走る! 潜る潜る潜る! 飛ぶ飛ぶ飛ぶ!

狂いなんざCO2、増えりゃ頭痛や目眩で深刻にもなるが、物ともせずに疾走中なのだ。

自己犠牲を超える祈りなんてありゃしない。

世間体だとか高評価だとか経済合理性だとかを、ブチ割った先の5年10年後に、必ずや誰かの心を唸らせる何か――それよりなにより、「生きていて良かった!」と笑って泣ける日々が、きっと手を広げて待っている。

病みをマイナス評価する輩がわらわらの浮世

精神異常は、社会全体で見ると異常かもしれんが、個人で見ると必要な営みであり、『正常な判断』『正常な行動』『正常な暗中模索』とでも言えてしまいますなあ、と思考が巡ってゆくのです。

ぐいぐいと煎じ詰めれば、『精神異常=不幸』『精神異常=悲劇』『精神異常=破滅』の一言で片付けられる代物ではなく、僕なんぞの人知では紐解けない、生物の根源的な叫び――勇ましくて尊ばれるべき生命エネルギーなのだ。

んでもって本物の現実は、鮮やかで大胆かつ、諸行無常の集大成でございます。

そうした自然の摂理は、時に残酷非道だとも言われる訳だが、その荘厳なる流れの中で人は痛みを味わい、一定確率で涙し、悲しみ、絶望した果てに、心を獰猛化させてゆく。
それはそれは恐ろしき事だが、『精神崩壊』と一蹴してしまうのは甚だ失敬で、なぜなら異常性が発露する人間の裏道では、熾烈な生存競争のあがきが光り続けている為、手荒ながらも『精神再構築』とも言えるからだ。

つまり、心の病とは人間精神の頑丈さの一種で、いつなんどきでも心は、どうにか現世に適応すべく、虹色――否、おぞましい色味も含め、キラキラからギラギラまで多色の放射を繰り返してゆく。

だから厳密には、精神異常なんて言い様はおかしく、まばゆい全身全霊の色なのであります。

という訳なので、僕を叩く者は黒人差別と変わらぬ野蛮さ、『カラリズム(人種差別主義者)』として、関係各所に通報するので覚悟しておいてください。

僕はこの先も一生涯、そこらの奴ら、世間体に体を預け――世俗の流れに身を任せ、表面だけを見て、善だとか悪だとかを決めつけて、他人を下に見る者共なんかには、絶対に屈服せず、我が道を突き進みながら、自分と周囲を幸せにしてゆく所存。

遺書公開の件にしても、裏側での死に物狂いがあったように、今ココにある人間社会には、表側だけじゃ良否を決めつけられない事象が多発しており、簡単に言えば、一人一人の痛みは千差万別、複雑怪奇なのでございます。

それなのに多くの者達はどうしてか、尊き命を単純かつ乱暴に掴み上げて、身勝手極まりない歪んだ善の基準でもって、○×の他者評価を下すという、エゴの神業を見せてくださるので、「ねーねー、善の押し売り、感謝の押し買いによる、心的報酬の荒稼ぎ、今日も儲かりまっか~?」と気になってしょうがない、是非とも知りたい、『偽善の成功法則』とやらを小生にもレクチャー、できますまいか?

人の世をさらっと見渡すだけでも、『善的な知能指数が低い』というか、冴えない善しか持ち合わせていない癖に、しょうもない善行の叩き売りをしちゃう、善的スパム人間な方々がゴロゴロといて、あまりのお粗末さで、わたくしめは悪意の呵々大笑をしてしまうが、一周回って面白い『善のスベリ芸』のせいなので、お許しください偽善神の皆々様~(๑¯Δ¯๑)/

いやはや、くず物の善が溢れる世の中でありますなあ。

「生きていたら最低ですね」のDMが、想像力の欠落した直情的な方々から、わんさか届きましたねえ。

僕が息を吹き返すより前から、あれこれと叩きに叩いて来たが、君たちは善のセンスがないだけでなく、すなわち包丁は使い方次第――善の取り扱いがヘタクソ過ぎて、皮肉にも誰かを死に追いやったり、誰かの心を傷付けたりしてしまうから、社会道徳ヅラで物語るのはやめてくれんかね?

ついでに売り言葉に買い言葉で、こちらも言い返すのであれば、あなた達は精神的な色覚異常者ゆえに、人間世界において個々別々に付与された、『素敵で豊富なカラーバリエーション』が存在する、眩しい現実を見せられても、顔にペタつく色眼鏡でねじ曲がった光景を見るし、あるいは目を瞑ってしまって受容しない。

で、「人間性」「正義」「べき論」を、独善が厚塗りの形相で唱え続け、さながら色情狂の発作を起こし、得手勝手に「許せない奴」と定めた相手に飛び掛かる、色々とヤバ過ぎる猿なのであります。

エテ公の皆様は人様を舐めているので、他害性が露わになったツラと、思いやりの色素が薄い為に、どんなに腹黒さを隠しても突き出てしまう薄情なるケツが、どちらも真っ赤っかで、「よく動く地獄絵図だなあ~」と感心する事しきりです。

――とかなんとか、通報どうたらからは取るに足らん冗談でして、『躁転=生物として誠に美しい闘争心』の論は、また詳しく後述する。

なにはともあれ、三途の川が実世界に重なって見える、大変リスキーな心理状態でございました。

しかしながら、遺書のクライマックス――ざっくり19万文字を書いた辺りから、「これ……反応を確認するまでは死ねないなあ」と、承認欲求が生命力の光を注いでくださった。

「ココで命の終了はもったいなくね?」と、天使の羽根付きな疑問符が飛び交い、僕を延命させてくれたのだ。

それでも心的異常は引き続いていたから、一旦、「生きながら輪廻転生すべきだ。さもなくば、僕は生きたかったんだっけ……死にたかったんだっけ……と精神が血迷い、まだまだ生存を継続したいのに、エラーとしての突然死が起きかねないなあ」と思ったが為に、浮き足立ちながらも、世間一般的には狂った行いをしたのです。

矛盾を残存させたままにズバっと言えば、『狂気に漂う正気の導き』によって、『最も成功確率の高い自己延命』を図ったのである。

この手の話は、健常派のマジョリティ――普通の枠内に収まる大多数からすれば、仰々しく、意味不明かもしれんが、精神異常の本質はこうしたカオスに内在している。

すなわち、遺書公開のドタバタ騒ぎは、命の緊急着陸的な意味合いでございます。

――がしかし、そんなモンは事実っちゃ事実なのだが、不誠実きらびやかな言い訳でもある。
先述した通り、昔っから僕の躁転はエゴイズムの塊である為に、「おそらく死ぬ気は皆無だったんじゃないかなあ」と、生きる事の貪欲さもひしひしと感じられる。

それでいて僕は、かくも性根の腐りがビューティフルな自分が大好きなのさ。
「生きたいし死にたい!」などの無秩序さは、人間生命が所有するチャームポイントの一つだ。

くだんの件を1%も反省しない、謝罪もしない。

なぜならば、生還する為に必要な身のこなしだったから。

下手に世間様に服従し、「さすがにやらかしたな。ごめんなさい」と頭を下げると、次回似たような窮地に陥った際に、エラー的な死が高確率になってしまう。

社会は一種の人間で構成されちゃいない。
みんな別々の大事な生き方を輝かせている。

ぱっと見は悪意だが、死を避けるべくやった苦渋の選択、今も生きている自分に拍手だ。

僕は命の危機に直面したのであれば、悪どいハーケンを世界に何万本とぶっ刺してでも、絶命寸前の奈落で山登りをして九死に一生を得るのさ。

その他大勢と比べりゃ、僕は出来損ないのダメ人間だが、己自身の正常も異常も、笑顔も泣き顔も、愛も憎しみも――どこまでも無秩序な我が心を眺めれば、「めちゃくちゃ美しくて生きるに値するなあ……」と自分に毎分毎秒、口説き文句を言ってやりたくなる。

喜怒哀楽、幸不幸、快不快、全時間の自分を愛そうぜ!

で、すごく難しい話、病勢が物凄まじい躁状態だったのは確かだが、『快楽としての躁的な破滅願望』『本当に命を落としかねない躁的暴挙』のどちらかは判然とせず……。

「命は大丈夫な異常性の発露であります! 僕にとっては恒例行事の安全な狂いです!」と明言はしにくい、なんとも曖昧模糊とした心の揺れ動き。

多重人格ではないけれど、俗世間の感性においては『不健康で不健全で不可抗力のエナジー』により、自己の連続性がすっぱり切り落とされたように、数週間~数ヶ月の記憶が朧気であり、「あれ……? 今って誰の人生だっけ? 今ってどんな仕事をしているんだっけ?」と、時折、一時的な自己喪失まで発生する。

ひとたび大規模な躁状態になってしまえば、身の振る舞いの想起が困難になる程までに、夢遊病じみた時を過ごすはめになるのだ。

奇をてらおうとせずとも、「躁転タイムスリップ?」「躁転のハイジャンプ?」「躁転のテレポーテーション?」と頭がはてなマークで浸食されてゆく。

ある日ある時ある瞬間に、躁に手をぐっと引っぱられ、アッパーな覚醒のステージに連れて行かれて、とにかく見当識を崩し……それに伴って、時間感覚や世界の捉え方もすっかり変わり、異常行動への躊躇が極めて薄くなるという寸法である。

ガバッと躁に鷲づかみにされて、「I can fly!」の躁転により、ぶっ飛んで連れてゆかれる。
そうして辿り着くのは極楽? 極悪? 天国? 地獄?

よりテクノロジーが高度に進化し、安価な小型機械をぱっぱと操作し、脳のモニタリングが個人単位でも可能になったら、荒れ狂う躁鬱の可視化――脳内フローをチェックしてみたい。

それってのも、僕の双極性障害1型は、急速交代型(ラピッドサイクラー)とも言われるように、躁と鬱の切り替わりが突如だったり、通常ありえない過度なトラブルを引き起こしたりと、歯止めの利かない力が働いている。

のみならず、イジメやネグレクトなど、僕の過失ではない理不尽な過去の痛みが蘇り、「ぜってぇに人間界にやり返してやっからよ」「覚えとけよてめらコラ」と、火に油を注ぐ――躁に攻撃性を付与する思考回転が始まって、『鬱を背負ったまま躁で猛ダッシュする』という、いわゆる不機嫌躁病が起きるから、今回の件や、無用な争いを起こしがちなのだ。

従って、鬱期に自己暗示で躁転させたり、躁状態かと思いきや……やせ我慢の時期だったりと、躁鬱の自己判定がしにくいゆえ、いつの日か、脳活動データを見て把握したいなあ。

たまさか僕は、身長165cm58kg前後で運動神経も悪く、たとえ他者にブチ切れても、「あぁ~こいつ狂ってかわいそう。大丈夫、大丈夫」と、喧嘩っ早そうな相手も同情してくれたり、逆に仲良くなったりしやすく、殴り合いなどにはならずに済んでいる。
気の毒なくらい弱々しいと、一周回って強みだと言えちゃう程には、無傷で逃げ切れる――生存率が高まるんだなあ。

やらかすとしても、食器をぶん投げて割ったり、会社で椅子を叩き付けてネジが外れたりと、かわいいエピソードであり、つまり間接的な暴力で止まるから、自他共に怪我などは一切していない。

だがifのお話――仮に僕がコワモテで背丈もあれば、躁的にぷっちーんと来た時に、相手の攻撃衝動も引き出しやすくなり、傷害事件の一つや二つが起きてもおかしくはない為、「神様、ひ弱さをありがとう!」と天を仰ぐ、そして陽光に包まれニカっと笑み。

なんたって肉体的に貧弱な今ですら、とくに明らかに相手が悪い場合だと、「別に一線超えても構わんな。留置所、刑務所の体験ツアーだ。そもそも人生設計も何もギッタンギタンゆえに、逮捕されようと関係ねぇモンな。生物的に弱くとも、全部失うつもりなら勝てるよな」と、ごく稀に危険思想がぐるぐると回り、すごい敵意が体内を充満してしまう。

筒井康隆のある小説にて、双極性障害らしさ全開の男が登場するのだが、彼はなんらかの拍子で意識が飛ぶと、周囲の人間を血も涙もなくボコるのだ。
イタリア語で糞の意味を持つ、『エスクレメントオ』という決めゼリフを絶叫する為、現実離れしたコミカルな描写だけれど、どぎつい躁転の時はこれに近くなる。

自分で操れる意識が溶け消えて、ひたすらに大立ち回りを演じる箇所などは、とっても共感出来てしまう。

それから前回upした20万文字の記事内で、これでもかと肉親を罵倒していたが、今現在は全く敵意がなくて、むしろ上記の写真の通り、家族で犬の散歩に行ったり、車で山登りをしたり、父親と14時間ぶっ続けでPS4の『ディアブロ III』をプレイしたりと、比較的関係は良好なのだ。

ではなぜ、「あんなに口汚く罵っている?」と思われるだろうが、僕の不機嫌躁病は多分、救われなかった14歳のトラウマ体験がトリガーになっており、不幸一直線に転落していたかもしれない、最低最悪の世界線をありありと想像した上で、躁的なやけっぱちがセットになると、100の痛みを10000の激痛に捉え直して、「あの時は良くやってくれたなこの野郎!」と当たり屋のバケモンと化してゆく。

事実、僕の精神異常や社会不安定は、家庭と学校でいびられ続けたせいではあるが、通常時の僕はもうとっくに、「みんな狂いの中で必死だった。しょうがないぜ」と心で折り合いを付けられている。
だが一転、躁転してしまえば、「いや待てよ、まだ復讐が済んでねぇだろ。やられ損で終わらせるかよ。まだ握った拳をポッケにしまうのは早いぞ! 躁のメリケンサックを装着して殴り込みに行け!」などと、ヘイトゲージがぐんぐん上昇して、目の玉がデロンデロンなインファイトをしたくなるのだ。

しかしまあ、古き時代の怨念――過去にブチ砕かれた痛みを、延々と忘れられんみっともなさも、不完全な人間の愛しさでございます!

いつでも丁寧で正義で社会善の野郎なんざ、さっぱり面白みがないでしょう?

前の記事に書いた内容にも装飾はなく、最低な過去は確かにあった。
よって躁側の言い分にも頷けてしまい、心がぐにゃぐにゃの厄介さ……和解と破壊がくるんくるん。

そうは言いながらも僕は生粋の軟弱者、よっぽどの条件が揃わない限りは、暴力事件を起こす事はない。
であるからこそ、おぞましい呪詛を白紙に落としたり、悪し様な口撃を一人部屋にぶちまけたりと、無血の暴力的昇華により、ブレた心身の均衡を回復させようとする。

さて一発バンッと、俗世間に向けて問いを投げ掛げよう。

「白紙を流血させてネットに流されるのと、人間社会を血みどろにされるのと、どっちがマシかな?」

何を伝えたいかと言えば、今般、20万文字の遺書に関して、生存報告する前から断罪じみた言葉が届いたけれど、謝罪するのは社会側であるし、僕は感謝されこそすれ、悪人だと非難される筋合いはない。

法を逸脱する行為でもなく、命を守り抜く行動なのだから、極めて社会的――他者への迷惑を最小限に抑え、生存確率を最大限に促進するバランス取りは、本来、万雷の拍手と、賞賛の声が届いても良いくらい、尊い生命の営みだ。

善的に白痴の方々は、善悪、道徳、倫理の運用能力が欠落しておりますので、他人の事を考えずに自分だけの人生を生きましょう。
余分な言葉を発さず、部屋の隅で体育座りして黙りこくっている方が、よっぽど社会貢献になるので、不良品の善を叫ぶ口を今すぐに閉じましょう。

法に触れてもいないのに、絶対道徳みたいな物言いで、人様をこき下ろす者が増えるのであれば、いつの日か我々は、絶対暴力の行使によって、対抗する可能性が極めて高くなるけれど大丈夫ですか?

つまり常人からすりゃ異常な行動――血なまぐさい破滅行為に見えても、「今ココにある異常を凌駕する、より酷い異常にブレーキを利かせる苦肉の策だ!」って事もままあるのさ。

何度でも釘を刺しておくが、君達は本当に『善の知能指数』が低いので、一見おかしいだけの他人が、裏側で葛藤――絶体絶命で嗚咽する想像もせず、「不謹慎だ」「迷惑系だ」「露悪趣味だ」とまとめ上げて、無自覚に人命軽視をやり、ちょっと間違えば誰かを死なせてしまう。

群衆は頭が悪い集合体なのに、善の武勇伝を語って存在証明したいのか、善が空っぽの偽善を絶叫するんだよなあ。

「愚衆伝! 愚衆伝! 愚衆でんでんででんでん!」とでも鏡の前で踊って、愚劣でグロテスクな自分の様態をとくと見て、ぶるぶると震えながら、己の気色悪さを学んではどうでしょうか?

おそらく、彼らは反知性的というよりか、人様に対する『愛』と『感謝』と『敬意』がどこまでも薄弱――虚偽の愛で商売をして、『自己正当化の金/地位/名声、批判されない安全地帯、褒め言葉』を得ようとがっつき過ぎている。
その為、本質的な『愛』と『感謝』と『敬意』に辿り着けず、ますます心ががらんどうになるから、対処療法として、他者を雑に批判して、ぺらっぺらな優越感情を得続けなければならんのだ。

しかし悲しいかな、この大衆の愚鈍さは改善されない。

なぜかって、人間の社会はアホとアホとアホで構成されており、アホとアホとアホがのさばり、アホとアホとアホがアホとアホとアホなままに生きているせいだ。
アホとアホとアホで自分の正しさを保証し合い、アホとアホとアホが声を大にして、「アホは素敵~!」「アホは中身がいいね~!」「アホはいい奴だな~!」「アホは思いやりがあるな~!」「アホばんざ~い!」「アホいえぇ~~~い!」「アホやったぁ~~~~!」「アーホ! アーホ! アーホ! アーホ! アーホ! アーホ! アーホ!」などと、アホとアホの偏り過ぎた共助の空間では考えるまでもなく、アホの自浄作用が働かず、アホのパンデミックはエンドレスなのであります!

アホの軸では、あのアホも、このアホも、そこのアホも、あっちのアホも、こっちのアホも、全部ひっくるめて100点を獲得してしまい、アホがアホに飛び込み、アホがアホを弾けさせる、アホ型の血の池が今日もアホを沸騰させている……!

誰よりも頭の足りない僕から見ても、「人間の枠内で上手に世渡りする君達はさあ、俯瞰視点で見ると愚かだなあ。気持ち悪さがゴージャスだねえ。うわあ……はああ……ほおお……なんとまあ……醜さの目立つゴロツキさん達でしょう」などと、失笑の混じった同情を禁じ得ない。

――なんてのは、いささか言い過ぎなので丁寧さを取り戻すが、僕も含めて人間は調子乗りであり、自分が正義の側だと思うと、『善でコーティングした人殺し』を涼しい顔でやりかねん。

だから語気を強めるが、『善的に頭が悪い』『善的に落ちこぼれ』『善的にろくでなし』をスタート地点として、正義の鉄槌を振り回さないように生きたい。

てめぇらの愛と平和なんざ、どれもこれも害と軽薄でしかなく、才能がねぇ奴らで群れる集団浅慮の偽善を元に発生する、アイロニカルな幻覚の中でぎゃーぎゃーと、インチキ善行爆弾の絨毯爆撃がうっせーぞ?

とち狂った愛と平和の叫びにより、純然たる恐怖を抱いてしまいますが、偽善で誰かをつけ回して、「あなたは正しい!」と認めさせようとする自己正当化ストーキングは、いつになったら終わりますか?

てめぇらなんて己の個性にフラれて、己の自我にフラれて、己の覚悟にフラれて、己の度胸にフラれて、すなわちアイデンティティーレベルで非モテなんだから、己に恋文でも書いて、鏡の己自身にキスでもして、妄想世界で紋切り型の「アイラブユー」を叫んでみなさい、こだました声がキモみのマテリアルゆえに、てめぇでてめぇから逃げちゃって、てめぇを構成する全概念にもフラれるかもしれませんなあ?

てめぇの細胞一つ一つが、てめぇの事を大嫌いだってよ。

だからてめぇはてめぇになれず、どこかの誰かの生き方や言葉を借りなきゃ、『てめぇ感』すら持てねぇ『てめぇ性の薄さ』であり、今にも消え入りそうで気の毒だから、てめぇを連呼しまくり、てめぇの存在をわざわざ色濃くしてやっている訳で感謝しなさい。

で、気持ち良くなれる正しさの嬢を求め、自己正当化ソープに足を運び、対価として魂払いをして、他人から常識や道徳や社会善を与えて貰って、トレンド肉便器と混じり合って、レプリカリビドーを動員して、どぴゅどぴゅと偽善を発射する訳ですねえ。

冗談抜きで、てめぇらのせいで人が精神病を来たし、死の淵に追いやられる事を忘れるな。

悪意には明確な敵意で対抗できる分、憎しみで生命力が増してゆくが、善意起点のバッシングは逃げ場のない拷問機関の如く作用し、これでもかと生き地獄で焼き続けられた末に、一人の人間が灰にされてしまう訳ですが、そうした他者理解のイメージを働かせた事は一度でもありますか?

しがないてめぇさん達の大方は、裁判官でも警察官でも刑務官でもないですよね?
なぜに裁きのメッセージを粗製濫造して、罪と罰のレッテルを貼りまくるのですか?

「批判と誹謗中傷は違う」だとか、「批判する権利はある」だとか、やかましい自己弁護をしておりますが、てめぇ様は特別、社会にとって有用な提案をする訳でもなく、誰かの心を唸らせる演説をする訳でもなく、言葉に行動を伴わせて誰かの人生を変える訳でもなく、ぼけぇ~っと社会性の機関車に乗っかって、しゅっしゅっぽっぽ~と、不完全燃焼の意見をモクモクとさせているだけですよね?

強めに言っておきますが、『社会性=正解』『社会性=正義』『社会性=真理』ではありませんよ?

善悪も道徳も倫理も発言も生き様も、ことごとくを人任せで決める資本主義のブタさん、文明病のワンちゃん、共同幻想のネコちゃん、今後もちゃちな常識、薄ペラな道徳を、飼い主である世間様に流し込んでもらって、パサついた固定観念のエサ、ステロフードをた~んとお食べなさい。

流行を良く噛んで飲んで、すくすくとご都合主義を育てて、世間並みのエゴイズムをぶくぶくと太らせて、さあギャンギャンと吠えてごらん、大量コピーされた紙切れみたいな遠吠えを。

どーどーどー、お~よしよし、良い子だねえ。
虚ろな目に模造品らしさがあっていいねえ。
ありきたりな頭で撫で撫でしやすいねえ。

世間がとか、社会がとか、道徳がとか以前に、てめぇがてめぇで人権意識を育みましょうね?

大勢がどの方向でどのように咆哮しているかは関係なく、てめぇが結果的に人命軽視をしているゆえ、てめえでもって『愛』と『感謝』と『敬意』を学んで、てめぇ起点の思考で、てめぇでやる行動で、てめぇの労力で愛情を育て、てめぇの愚かさに気付けるようになって初めて、あーだこーだと何かを物申すのが吉でございます。

てめぇらは他人の痛みを読み取ろうともせず、てめぇらの近辺にある手軽な道徳心を引っ掴んで、てめぇらの未熟な技術力で殺傷性だけは凄まじい攻撃性の硬球を、びゅんびゅんと暴投してやがるもんなあ。

善的なおばかさん達、そろそろ偽善を慎みましょうね?

あなた達、善的落第生が騒ぎ出して何時間が経過しましたか?
人類の祖先が二足歩行をし始めた約600万年前からうるさいのですか?
文明開花の中心で人間の精神はみるみると退化しているんじゃありませんか?

タンタンタンタンタンタンタンタンタンタンタン!
エゴまみれの人間風情が、偽善の足音を立てて走って来たよー。
トントントントントントントントントントントン!
エゴまみれの人間風情が、人様の心の扉に偽善の拳を叩き付けているよー。

怖いよおぉ、怖いよおぉ、怖いよおぉ。
フェイクのマサカリをぶん回しているよおぉ。
偽装の笑顔で偽善の大合唱をしながら突っ込んで来るよおぉ。
シンプルなサディズムの善が現実を侵食して愛と平和が干されるよぉお。

あ~はっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっ。
エゴまみれの人間風情が、合法的な加虐趣味を見つけたらしくてやばいよお。

『正義』『道徳』『倫理』『不謹慎』『迷惑を掛けるな』『大人としてどうなの?』
コマンドーのシュワちゃんよろしく、武器庫から凶器をガバガバと調達して、まるで機関銃ドババババババババババっと攻撃衝動で笑い転がっているよお。

「完全合法! 完全犯罪! 完全無料! アットホームなサディズムです! 『正義』『道徳』『倫理』『不謹慎』『迷惑を掛けるな』『大人としてどうなの?』などなど、自宅にいながらでも合法合憲の破壊兵器を用いて、にっこりと笑いながら、どこかの誰かを泣かしてみませんか? シバキ回してみませんか? え? 誰かが不幸のどん底に堕ちたらどうするのって? お客様安心してください! 彼らは根っからの悪なのです! 『正義』『道徳』『倫理』『不謹慎』『迷惑を掛けるな』『大人としてどうなの?』をぶつけたくなると言う事は、絶対確実、どう考えても、まず間違いなく、何があっても、100%、悪なのです。さあさあ、一切罪を背負わずに済む、大人の遊戯――「みんなも悪いって言ってるよ!」「普通に考えてダメでしょ!」「常識でしょ!」という、自己正当化ワードで毛繕いをしながら、みんなでお手々を繋いで仲良く、善で殴りましょう! 善で蹴りましょう! 善でマウントポジションを取りましょう! 善でチョーパンを決めましょう! 善型フロントネックロックだ! 善型シャイニングウィザードだ! 善型サソリ固めだ! 善型卍固めだ! 善で後頭部を殴りましょう! 善で目潰し? 善でローブロー? 善で髪の毛引きちぎり? 全然おっけぇ~です! だ~~~って我々は由緒正しい善ですもの! 全身から善が零れ出す善人様で~~~す! さぁさぁ盛り上がって参りました! 善型デスマッチ! この加虐愛はひたすらに合法で正義で社会善なので、手加減はいりませんよ! さあ叫びましょう皆々様! 善行! 善行! 善行! 善行! 善行! 道徳! 道徳! 道徳! 道徳! 道徳! もっと善意を握り込んで悪に制裁を~! 拳骨! 拳骨! 拳骨! 拳骨! 拳骨! 許すまじ悪に情けなどいりませんよ~! ボコろう! ボコろう! ボコろう! ボコろう! ボコろう! おっとぉ~! 我々、善の者を祝福する善の雨が降ってきた~! 善の風が吹いてきた~! 善の台風がやって来たぞお~~~! 善が回る、善が巡る、善で頭がくらくらする、善行様のお通りだぁ~~~! ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる! なんとリズミカルな善性の摂理! 善のメロディアス様だぁ~~~! またも我々は善にメロメロでございます! 善♪ 善♪ 善ぐりがえって♪ 愛愛愛♪ いいないいな~♪ 慈善っていいな~♪ 善神様! 父なる善様! 母なる善様! 私達に光の善を与えてください! もっと善が欲しいのです! 善行がしたい! 善性を高めたい! 善人でありたい! 悪はどこだあ~~~! 悪をよこせ~~~~! 早く悪よ出てこ~~~~い! 善の発表会をさせろ~~~~~~! わたくしめは善で~~す! ぼくも善で~~す! おれも善で~~す! わしも善で~~す! わたしも善で~~す! あたいも善で~~す! ぼくちんも善で~~す! おいらも善で~~す! あたすも善で~~す! ぼきゅも善で~~す! わたしゅも善で~~す! うっひゃっひゃっひゃ! けらけらけらけらけらけらけら! かっかっかっかっかっかっか! あははははははははははは!」

なんだろう、全力ヒューマンホラー、やめてもらっていいですか?

躁転でバンザイ突撃をしてでも、てめぇらの価値観に染まらんよう、エグい牙を研ぎ続けてゆく。

閑話休題。

親子関係のお話ですが、これは沈めがたい難題――イジメやネグレクトの諸々でキャリアを積めなくなり、20代は窓なし部屋で生きる事になり、この先も身分不安定、いつどうなるか分からないゆえ、大きなストレスが掛かる訳だ。

だから、「過去より今を生きよう!」と踏ん張っても、どこかで心が悲鳴を上げてしまい、躁転でヘイトの大爆発――地球全土、母なる大地に突き立てる中指、血走った目で、「マザファッカーの乱れ打ちだメーン!」って感じだぜ、えいよー(๑¯Δ¯๑)/

その結果、今では仲良しこよしの親に対しても、「めちゃくちゃ好き! めちゃくちゃ嫌い! めちゃくちゃ幸せでいてくれ! めちゃくちゃ不幸せでいてくれ! 天国に行けよ! 地獄に行けよ! ぶん殴りたい! 握手したい!」などと矛と盾の想いが、ドンパチと大戦争を開始するのであります。

そうこうして僕の真意とやらは、躁鬱のジグザグがえげつない為、「ピピピの本音はどっちなんだよ!?」と言われても、「う~ん、混ぜ込まれたカオスの中で、僕の気持ちが目を回している。いずれにしろ愛憎のリバーシブル、お洒落だろ? お前も中指に付けたインクでラブレターを書いてみろよ。ぶっ壊れた心でもリスペクト精神がありゃ、毒素の含んだ愛だろうと、誰かの心の奥底まで届くぞ」と、ヘンテコでイキった答えしか返せないのだ。

これは逆ギレじゃなくて、逆に綺麗なレベルの話であります。

はてさて、他者の個性を舐め腐った奴がカサカサと、この地球上に跳梁跋扈しているなあ。

どいつもこいつも、地球惑星の絶対神でもなければ、人間の正邪を決定する審判員でもないのだから、「優柔不断だね」とか「言動不一致だね」とか「本音が分からないね」とか、神の使い気取りで人を批評するのはやめんか。

自己犠牲で何かデカい事を実現しようと、もがき苦しんでいる訳でもねえ奴らに限って、ピーチクパーチクと言い立てやがる。

せいぎでしゅか? どうとくでしゅか? りんりでしゅか? るーるでしゅか?

はいはい、100年以内には儚く散って、閻魔帳に赤文字で0点と記載されるから、せいぜい今だけ多数派に寄りかかって、「自分は正しい!」と命名された、薄い安心布団にくるまっておやすみなさい偽善のベイビー。

100点満点のフェイクヅラで、バッタモンの社会善を着込んで、メッキの足音を響かせながら、誰かのコピーされた足跡に沿って、イミテーションの道を進みつつ、媚びとコピペに小綺麗なペテンを被せて、いつまでも愛想笑いをがんばりましょう。

Ctrl+Vで、「ケラケラケラケラケラ」「うっひゃっひゃっひゃ」の笑い声を地球上に貼り付け。

君自身の頭で考えずに、人に合わせて誰かをディスりながら淡泊な大笑い、浅ましさのリズムで実に気持ちが良いですなあ。

そもそも、躁鬱のどんちゃん騒ぎもあるゆえ、どの時点における僕が本来的な僕なのか、頭を捻っても分かりゃしないのである。
今この瞬間ですら、「ちょっと鬱気味なのか? 不機嫌躁病がまだうっすらと続いているか? もしかしたら正常なのか?」とちんぷんかんぷんなのが正直なところだ。

一昔前でありゃ、「今は正常だよ」「今は元気だよ」「今はご機嫌だよ」と連呼しまくりながらも、実は鬱期であって痛い目を見たり、停止ボタンのない憎悪感情で心を蝕まれたりと、誤った自己認識でより激しい精神崩壊を起こして来たから、最近は判断保留の持続を心掛けている。

でなければ、現時点の精神世界に対して、異なったラベリングをして負荷を掛ける事になる為、病状が一気に悪化しかねないのだ。

損で終わった事は一度もない躁転

『躁とは破滅型の救済措置』とでも言いたくなる程に、躁が最終的にマイナスで終わった事なんて、ちっこいモンすら見当たらん。

過去15年以上――僕は躁状態のわやくちゃな言動でやらかしても、100%、遅かれ早かれ、なんらかの報酬が必ず舞い込んで来て、豊かに笑える明日へと繋がって行った。
つまるところ、有意識では導けないクレイジーな生存戦略を、躁が無意識の領域――僕の深層心理にずぶずぶと潜ってゆき、これぞという窮余の一策を、むりやり浮上させてくれるのだ。

一歩間違えば……くたばる心理状態にしても、僕の心奥に躁が手を伸ばして、そこかしこで宝探しする為に発生する現象ではないか?

つまりこうだ、死ぬ気と真逆の生命力で、心的探索をしまくっているが、ひょんな事から『死の欲動』が含まれた心の引き出しに手を掛けてしまい、「今回こそヤバいな~」と追い詰められるけれど、その瞬間にも躁は猛スピードで走り続けて、僕を救おうとなんらかの武器を見つけ出す。

僕はその心理現象に肯定的だが、「ちょっと歯車のズレがあれば死ぬ可能性は20%程あるな~! ただ残り80%は強烈な生命力の光を帯びている……!」と、希望と絶望をパラレルに痛感するのでございます。

躁病患者にありがちな話――「一切死ぬ気がなかったのに、気付いていたら飛び降りていた。運良く後遺症を残さずに助かって良かった~」といった類い、ミスの積み重ねで命を落としがちだ。

要は躁的なダイナミズムで、生命力が昂ぶり過ぎる事によって、一瞬ふっと「死んでみる……?」という考えが浮かぶと、「まだ生きるぜ!」と心で願いながらも、高速で堂々たる躁的な思考処理のせいで、「ぱんぱんぱんぱんぱん!」とリズミカルに死に向かう感覚であります。

でも心の根っこでは、「死ぬくらいなら、小規模でも革命的な扇動を行って、社会に戦争を仕掛けてやるぜ!」というくらい、強めの生存欲求がぴかぴかと光っている。

この数ヶ月にしたって、記憶の連結が滞り、異常な浮遊感でぐでんぐでんに酔っ払ったのち、ふとした拍子に我に返ると、「あれ? なぜ20万文字も文章を書いたんだ? 何を目的にこんなモンを完成させた?」と驚いた。

けれども、おかげで読み書きの面白みが増していたり、知的スピードが目に見えて向上していたりで、「あっ……僕が眠っている間に、また3年5年10年後に、一撃で何か大きな成果を引っぱって来る技術を、躁主体で発達させようとしてくれていたんだ?」と感動を覚える。

想像の語りになってしまうが、「絶対に生きなくちゃ! こんなところで終わらねぇぞ!」という、根源的……生物的な本能が怒濤の如く目を覚ますのだ。
そして僕の自意識を置き去り……何周遅れにもする躁的スピード感でもって、自分が現在抱えている壁をぶち破って、次のステージに連れて行ってくれる。

これは疑いようもなく、僕が14歳の頃、『家庭の不和』に『学校のイジメ』でボコボコにされ過ぎて、意識の捨て去り――お人形さんじみた無感覚で長らく過ごした時期が、躁をばしゃばしゃと飛ばす水源地である。

「あと一歩で死に踏み込んでしまうな……」というレッドゾーンに突入した直後、「この世には怖いモンがねぇ!」「俺様がルールブックだ!」などと躁が躍り出る。

『本能的な火事場の馬鹿力』が僕の精神構造に取り憑いているのだ。

前回の遺書より引用、下記の通り、善悪なんざ一切抜きに、「動物的に勝つべく何をすべきか?」を躁が考え、躁が実行し、躁が想像を超える世界までひとっ飛びしてくれる。

僕の双極性障害は18歳辺り、人生で初めて世の中に刃向かった体験――集団窃盗をやらかした辺りから顔を見せ始めた
※詳細は『傷口にぶち込んだ暴論こそが躁病? - ぴ』の中間辺り、『青春を盗まれた分、盗み返しているだけだ。まだまだ足りねぇよ!』に書いてあります
家庭に学校に居場所もなくて、身も心も破壊されて全時間軸が血だらけなのに、どうやって腐った世界の崖を這い上る?
ILL BOSSTINOが教えてくれたように、雨だから魂の牙を光らせなきゃな

他者の双極性障害はどうか不明だが、少なくとも僕の躁鬱症状は、下剋上狙いで病的な駆け上がりをする、究極に自己中心的なクレイジーさと言えるだろう。

短期で見ると日常がぐちゃぐちゃになる為に、猛烈な損害が生じて見えるが、後先で必ず、デカい利得にありつけるという、絶大な信頼感を躁に持って生き延びて来た。

それでいて、ただの一度も裏切られた事がない。
過去の歴史だけを見返すと絶対的に得をしており、たとえ分かりやすい物理的な報酬ではなくとも、己の弱さを叩き割ったり、石頭で空転していた生き様を急カーブさせて、一瞬で軌道修正が出来たりと、なんらかの意味で儲けを獲得するのであります。

「万に一つも損だけで終わる事はない!」という確信が、鬱状態に苦しんでいる時期でさえも、精神世界の中央に鎮座ましましているのだ。

我が人生で何をどう最悪な展開に持って行こうとも、どこかのタイミングで狂気的な躁転がおっ始まり、堕ちに堕ちてしまった僕を、『地獄の蜘蛛の糸VIP待遇』とでも名付けたい力強さで、ぐいーっと引っ張り上げてくれる。

であるから、「心が歪んだ醜い人間生命だなこいつ……」と呆れられそうだが、僕の場合は鬱症状も死にたさも、自己陶酔のアトラクションの一つであって、暗転式の快楽というか、暗くて湿っぽくて危なっかしい娯楽……ぶっ壊れる享楽……実はすこぶる楽しんでいるのかもしれない。

そうは言いながらも、躁と鬱の荒々しさにやられ、私生活の何もかもをクラッシュさせてしまい、悲劇に泣きじゃくる自分がいるのも事実だから、めちゃくちゃ混迷を極めた人生であります。

つまり、笑いと涙、喜びと悲しさ、快感と不快感が、神の見えざる手でシェイク――情緒の掻き乱しでシャカシャカの混沌となる為、全部本音であり、全部妄言であり……そんくらい心が騒然とし続けていて、精神的にいつだって迷子になっている。

幸せも不幸せのメーターも、相反的な感情で針が一刀両断で二分されて、右にも左にも全力で振り切れてゆく。

畢竟、幸不幸が同時多発的に100点満点を叩き出すのだ。

「超幸せでいて超不幸せ、笑顔で泣きながら、晴れの日に降る雨を浴びて、生きていて嬉しいと思いながら死を考えている」といった塩梅で、精神が絶えず矛盾抗争中で、良くも悪くも退屈する暇がない。

強引に表現するならば、躁鬱という寄生虫に脳を乗っ取られて、飴と鞭の戦略で巧みに操られながら、なんだかんだ僕の生存欲求と、人生の豊かさは深まりを見せるのだ。
擬人化した物言いになるが、躁くんと鬱ちゃん、こいつらも笑って長生きするべく、僕を守る救済手段を無尽蔵に編み出しているんじゃないかと。

なんて妄想っぽい話を展開すると、ヤベぇ奴だと思われるかもしれんが、一度胸に手を当てて考えて欲しい。
実のところ人間が、通常の自意識で認識する物事――今この瞬間に、自分の目で眺めている世界の方が、よっぽど妄想的ではないだろうか?

要するに、これまでの人生行路において、我々は様々な情報をキャッチしながらも、なんらかの偏りを生じさせてゆき、思考の幅を広げるどころか狭めてしまうのさ。
一言で言うなれば固定観念、自他は問わずにステレオタイプに眺めたり、思考や言動が一方向にしか働かなくなったりしがちだ。

さらには、今までの自分を保とうとする恒常性が働き、ますますもって頭が凝り固まって、新鮮な現実をちゃんと受け入れずに歪んで捉えまくり、心にちんたらと楽をさせようとする。

それらを勘案した僕のひとまずな結論は、躁鬱症状は異常ってより、現実に立ち向かう最強の正常さなのであります。

とどのつまり、不安や恐怖の感情とか、自分のへなった弱さとか、くだらんしがらみとか、好感度や世間体とか、邪魔な荷物をかなぐり捨てて、理想の世界に疾走しようとする野性の迸りと言えよう。

全身全霊の捨て身ゆえに、勝つ為に関係のない制限、制約を取っ払い、獰猛な目つきで現実世界にアクセス可能になるのだ。

その為、「破滅的な行いも、危険な試行錯誤も、人間的に一線を超えた事も、動物的な態度として正しければやって当然!」とゴーサインを出せるから、既成の観念に足止めされず、スピーディーな獣として爆走できる。

これは特に双極性障害1型に苦しむ方々だと、ちらほらと共感の手を挙げてくれる人もいそうだな……と、調子づいた予想をしておく。

一癖のある言い方をすれば、通常だと思われている世界、文明、社会、人間の方が、パッケージをビリビリに破いたモノホンの現実目線で言えば、よっぽど深刻な病気を蔓延させる精神病棟、患者達なのかもしれない。

人間の思いつきによる『通常』――そこに属せる者たちは、妄想の次元で身を休ませられる絶妙な意識のポジションに、すっぽりと偶然にもハマる事が出来ているから、たまさか常人の枠内で生きられるのだ。

そして僕は躁転するたび、「ちょっと病的な慌ただしさがあるから気をつけてね」と言われて来た。
しかし、大多数が異常だとか狂気だとか、そう見做しているこの状態こそが、本来的な現実なんじゃないか……という実感が強まる一方である。

「僕は今の今、まるで野生動物の一匹になった躍動感で、一生命の灯火を確実に感じながら地上を走っている。人間社会の集合知、集団妄想、集合的無意識といった、勝手に人々が築き上げたストーリーの枠から外れて、今やっと僕は躁の靴を履きこなして、本物の現実界を走っているのだ! やっとこさ何でもやってやれるぞ!」と、吠え散らかしたくなる衝動でゾクゾクする。

もはや躁病は病気どころか、生物として正気になり過ぎているが為に、人間社会における構成員としてはリスク要因となってしまうから、「我々、社会的通常である人間を畏怖させて欲しくない。あなたは病気なので治療してください」などと、大衆がペコペコと頭を下げやがるゆえに、致し方なく僕たちは精神病者になってあげている。

でもリアリスティックな目線で言えば、僕らは異常者どころか、生粋の正常者として、生身でもって真っ直ぐに世界を捉え、自然的な現象の狂いも堪能し、動物的なひたむきさで今日を生きてゆく。

とりわけ、人類のフィールドで利益を上げやすい側にいる、動物性も現実性も薄い人間風情に、正常や異常、正気に狂気を語られる事はちゃんちゃらおかしくて、お前らの方が病気であり異常性を繁殖させて見えるし、対照的に僕はいつでも、正常に躁転して、正常に躁状態を過ごして、正常に躁鬱ぐらぐらのジェットコースターに乗って、いつも通りの疲れを楽しんで暮らすだけなのであります。

そのままの本音をぶちまけると、僕は自分の狂気で困る事がないし、今回の遺書がうんたらの件にしても、人間達が共同制作した人類の物語上では、あまり褒められた行為じゃないのかもしれんが、たとえば犬とか猿とかゴリラとかチンパンジーとかは、お前らの道徳律なんかには我関せずながらも、立派な佇まいでリアル現実を生きている。

いち生物の根源的なアプローチの基準で考えれば、むちゃくちゃな事件だとか、躁状態のぐちゃぐちゃさなんかも、大した問題ではないし、異常とすら言えないし、「これが生物の営みって奴じゃん。狂いも自然の摂理だよね~」でおしまいの話である。

すなわち、たかだか生物の一種、人類限定の価値観に身を預けなければ、痛みも反省点も生まれずに済み、「今日もいい天気だなあ。そういえばさっき躁転で20万文字の遺書を公開したら、ツイッターがちょっと騒がしくなったなあ。それはさておき風が気持ち良くて、なんだか今日はお日様が笑って見えて、こっちまで明るい笑顔になるし、とっても心地が良いねえ」という温かい流れが生じる程に、狂気=悲劇と結び付けなくて済み、「動物ってそんなモンだよねえ」の陽気さで、幸せに過ごしやすくなるのでは?

もしかすると、現代人を悩ませる苦しさの大部分も、不鮮明な現実を生きる人間風情が、おごり高ぶって愚かな他者批評を続けているからなんじゃないか。
裁かれない集団暴行的に、勝手に正常と異常を区分けしたり、○×で優劣をはっきりさせようとしたり、法に抵触する訳でもない人様のちびっこいやらかしに対し、道徳や倫理を大仰に持ち出したりするから激痛が走る――本来の受ける痛みを倍々ゲームに増やし、人の心を蝕んでいる可能性があるだろうなと。

遺書の件にしたって、僕は躁鬱症状を持った生命として今までずっと生きて来ているから、一般世間のモノサシでは異常であっても、僕にとっては正常なぶっ壊れ方であって、おかしいとかおかしくないとかじゃなく、風邪を引いてくしゃみが出たような話でございます。

これは世の中に煽りを利かせている訳じゃなく、正常とか異常とかの前に、人それぞれの生きる道があるって事なのさ。

シンプルな話、文明化された人間社会においては、「動物的な生き様=常識がない、道徳心が欠落している、人としてどうなの?」と疑われるが、もっと広い視点で眺めてみりゃ些末な問題でしかなく、『己自身が飢えをしのぐ為の生存戦略』としては、ちっともおかしくないのであります。

そもそも論、誰かに迷惑が掛かろうがなんだろうが、あくまでも自由競争社会である以上、精神的な意味では、奪い合いのジャングルと変わりゃしないゆえ、はっきり言ってしょうがない。

社会が不平等で格差が是正されず、弱者側にダメージが来るのであれば、「じゃあこっちもルール違反で突撃するね?」の一言でございまして、どう考えても筋は通っているよね?
人命尊重の互恵関係がキープされないくらい、貧窮させられる者がいる現代なんだから、こっちも毒には毒で返さなきゃお話にならないでしょう。

それが勝負事の原理原則――「そっちが人間らしい生活を保障しないんであれば、ただじゃ済まさねぇから覚えとけよ? 根源的なヘイトを燃え立たせて憂さ晴らしをするべく、理屈とか脈絡とか正義とか関係なく、自分でも手に負えない野性でぶち込むだけだぜ!」という態度は、動物的にとても美しいではありませんか。

「平和とか治安とか知らねぇよ、社会の側が先に仁義なき戦いを仕掛けて来たんだろ? もしも違ぇんだったら、なぜにこんな格差や貧困で泣く奴が多いのか、今すぐ懇切丁寧に説明しろやコラ? 人間全員が敵だぞ。何かおかしい事でも言ったか? これはお前達が、動物の一匹一匹をわざわざ認識せず、調理して腹を満たすべくカッ喰らうのと同じやり方だから、そもそも生き残り競争ではなんでもありだろ?」

よって、切った張ったで報酬を勝ち取る、惨たらしいステージに僕たちは存在しているが為に、何をやらかしても正義であり最高であり素晴らしいのだ。

これは自己正当化ではなくて、単純明快、動物としての崇高な正当防衛です。

ちなみに、この論陣で攻め立てている僕自身が大好き。

ナルシシズムの温泉に一生浸かっていたいくらい、我は可愛いし、素敵だし、格好良いし、なんて崇高な存在なのだろうと快楽の極みだし、「ピピピ is justice! ピピピ is justice! ピピピ is justice!」と全細胞がシュプレヒコールしている。

という訳で、もしも僕の思考形式に大きな過ちがあり、考え方のおかしさが明白だとすれば、絶対的な真理を流し込んでくれよな。

一体全体どうしてダメなのでしょうか?
誰か解説してくれますか? 誰かプレゼンしてくれますか? 誰か圧倒的な否定文を書いてくれますか?

この辺の話を不謹慎だとか、炎上狙いだとか、アホらしい戯れ事だとか、舌打ちで終わらせて来る奴らは、今も嘆き悲しんでいる世の中の弱者を、さんざっぱらに舐め腐っているのと変わらんから、てめぇらは態度を改めろよ?

弱者が連帯して大暴れしねぇのは、我々弱者の心優しさに依存した奇跡であり、ちゃんと手を合わせて、「ありがとうございます」と毎日感謝を口にしろよ?

で、あれこれと苦言を呈していると、「強者には感謝しようよ。そうすれば気持ち良く経済循環を起こしてくれて助かるんだよ!」と横槍を入れながら、優等生ABCDEFGあいうえお12345みてぇに、次々に良識ぶった奴らが出現する訳だが、いやいや、強者が不快感を示して、しかめっ面になっている方が、雀の涙しか降って来ないよりは遙かに心が跳ねるだろ。

何が経済循環だ? 何が社会善だ? 何が昔の貴族より豊かな生活だ?
おこちゃまみてぇなワードを定着させて、強者達を平和にのさばらせてたまるか。

てめぇらが叩きつけるケチくせぇ小銭よりも、てめぇらの嫌悪感の方が、よっぽど快楽指数を高めてくれるのよ。

「ルサンチマン is lovely! ルサンチマン is cool! ルサンチマン is beautiful!」の精神性を強固にして、「強者への憎悪感情ってお洒落~!」「強者ってキモいよねぇ~!」「強者の余裕ぶったツラ構えに中指立てに行こ~!」などと、女子校の日常会話にもなるくらい、「ルサンチマンはかっけぇんだぞ!」という社会風潮を巻き起こしたい。

弱者みんなでの連帯はむつかしくとも、常識をぶち壊してピラミッド上層の奴らを怒らせまくって、ヘイトで吹き荒れるメランコリックな世界に仕立て上げた方が、よっぽど起伏に富んでいて楽しいと思いませんか?

極論でしかないと捉えられるかもしれんが、僕個人の躁状態に限定するならば、こうした攻撃的な這い上がりのメンタリティこそが、躁転における紛う事なき本質であります。

人間の文明において、あらゆる資産は有限であり、誰かの幸せは誰かの不幸せに繋がりかねないのが、覆せない現実の法則だから、ならば牙を剥き出しにぶんどりに行った方が、死んだ時に後悔しないし、本気で戦って破滅したのであれば、それは生命力を解き放った証でもあり、これほどハッピーでワンダフルな事は他にない。

この世界はいつでもどこでも、競争、競争、また競争であります!
恋愛にせよ、金銭にせよ、福祉にせよ、なんだって残酷な奪い合いが根底に渦巻いている。

その為、僕は躁状態でやらかし続けて来たが、反省なんて露程もしていないし、むしろマンセー的な腕の突き上げで、自分の尊い異常性を愛している。

鏡に映る僕自身に毎日、心を込めて伝えてやりたい。

Thanks for showing us your lovely face!
I love you!
Shut up, world!
Fuck you, rich man!
High-rise trash!
Let's destroy the world!
I'm not going to die!
Jumping from hell!
I don't need heaven!
I'm the symbol of heaven.
I'm the phoenix!
We're gonna win this thing!
i'll keep living!
My name is pipipi!
Give me money, give me love, give me happiness!
He who lives wins!
You're real pretty!
I'm the justice!
You gotta live!
Love for me!
The world follows me
God loves me!

でもって、いずれ窮地に追い込まれる事があれば、それは文明開化している癖に、一人の人間を救えない社会の悪さが明確ゆえに、こっちの動物性も止めどなくして行って、ぐっちゃぐちゃにしてやればいいだけの話で、躁が損害を運び込んでくる事はないと言い切れる。

それに加えて、僕は僕自身と、周囲の人間にはできうる限り、『愛』と『感謝』と『敬意』を持ち込んでコミュニケーションすると決めている為、どれだけ社会的な悪になろうとも、一定数の仲間達は確実に僕を助けてくれる。

そして僕はこの2年くらい、惰性で専業YouTuberをやる日々の中、「自分が提供している薄い価値に見合わない、大きな救いを視聴者さんから貰い過ぎだな……。でも疲れ過ぎて、何をすべきか分からねぇ……」と、罪と罰のへばりついたジレンマにやられていた。

こうなると逆に罪悪感のストレスで、「憂さ晴らしに暴論でも吐きまくってやるぜ!」と、気持ち良くない言動が増えて、「今の自分は大嫌いだなあ……」と心の痛みに苦しんでゆく。

で、命の危機を連想してしまう鬱を来たし、「終わっているなぁ僕は……もう生きるの嫌だなぁ……」と、部屋をゴミ屋敷にして嘆き続けるのだが、ある瞬間に突然、萎縮してBB弾サイズになっていた魂がぐぉぉ~~っと肥大化して、全表面に牙が突き出てきて、破壊の鉄球みたいな心持ちになるのだ。

すると、鬱状態――「頭が働かない……無能な僕なんかじゃ、恩人の視聴者すらも嫌な気持ちにさせちまう……」という思考は、躁の一撃でばこーんっとぶった切られて、「人間は誰しも異常の生命だぜ。こんな愚かしさなんて序の口よ。細かい事なんざ関係ねぇから、己の生き様を剛速球で投げまくるぞ! 絶対確実に巻き返せるから安心しろ! 躁状態でしくじった事が一度でもあったか!?」と、超絶幸せな気持ちになり、「むちゃくちゃ素晴らしい人間だな僕って奴は!」と自分が誇り高く思える。

さながらドラえもん、足裏が床に付かず……数mm浮いている気がするくらい、野生動物じみた勇ましさが飛び出すような高揚感に包まれて、「地球上のみんなありがとう! 一人残らず全員大好き! でも間違って金属バッドでフルスイングしたらごめん! 動物的になんでもありなモードだからごめんな! 脳天で鳴らすカッキーンの音は気持ちが良いんだろうなあ! 他者の魂を黄泉の国へとかっ飛ばすホームラン王! いいねぇ! 最悪の場合に備えて謝罪しておくぜ! いや謝罪ってなんだっけ? 頑張る生命が世界に謝る事なんて一つでもありますか!? なんだっていいんだよ! 僕は一生懸命に生きている! 神様も仏様も、そして僕自身も全てをお許しになるぜ! 光だ! 光だ! 光が見えるのです! 光線銃のように走れ! 走れ! 走れ!」と、愛を感じながら暴走出来るモードに突入する。

『認知の歪み』という差別表現を使う奴らへ

君達はかわいそうなくらい善のIQが低いねえ?

以前から思っている事として、文化人気取りなのか知らんが、『認知の歪み』なる言葉を用いて、弱者や精神病者の言動を笑う奴が良くいるけれど、『人権蹂躙』とか『差別』で遊ぶのがお好きな方なのかなあと、そのサディズム性にマジで笑ってしまう。

日本を超えてウエストランドまで届くサドのロケット弾ですなあ?

まずはあなた様が『慈善の歪み』を整えませんかあ?
あ~、世界を眺めるメガネも歪んでおりますかあ?
じゃあしょうがないねえ、善的敗残者御一行様?

という訳で、『強者による認知の歪みワード乱用ver』に限定し、偽善のケダモノに鞭を振るってゆきます。

まず第一に、てめぇらみたいな強者は、弱者達に苦しい時間を押しつけている訳だろ?
そら弱者サイドはてめぇら以上に狂った現実や、苦しい現象を認知せねばならねぇから、一見すりゃ歪みだらけに見えるだろうよ。

弱者の日常に、精神的ゴミを流し続ける格差構造の内部において、三者三様のてめぇらはと言えば、必要以上に不平等や貧困を考えずに済むもんな?

弱者の認知に負荷を与えているのはどこの誰か? どんな環境か? どんな構造か?
一度真剣に考えてみようよ。
偽善的おぼっちゃま君?

何が認知の歪みだ?
差別的な言動で人権無視のてめぇら、はてなブックマークにもいたが、あんま人命を舐めてんじゃねぇぞ。

偽善的ヒットラー君? 偽善的ポルポト君? 偽善的プーチン君?

キンキラキンの偽善、あらまあ~~~眩しいざます!
お~~~~~ほっほっほっほっほっほっほっほっ。

富のにんじんの旨みを知って、パッパカパッパカと金色の足踏みをし、見下しの粉塵をまき散らし、隠された不謹慎さの唸りが聞こえそうな、どこの馬の骨君?

化けの皮を剥いでみろよたわけカス共。

僕は自己破滅的な遺書を叩き付けて、人間性を疑われたかもしれねぇが、『認知の歪み』だ、『承認欲求』だなんて差別表現を用いて、弱者をいたぶっちゃいねぇぞ。

てめぇのコメントこそが、てめぇの人間性の絶命を象徴する遺書だろうが。
歩く腐った根性の遺言状君、程度の低さをキープするのうまいねえ?

『認知の歪み』なんて言葉を、善の白痴野郎が気軽に書いてんじゃねぇよ。

ねえねえ、偽善のゆるふわ君?
豊かさの布団ですやすやと寝込みながら、今日も明日も『認知の歪み』がどうたらと寝言ですかあ?
弱者が陥る最底辺の世界には、てめぇらからすりゃシンギュラリティ並みの衝撃的な痛みがあるぜ。

最底辺の尊さ、弱者の崇高さをマジで舐めんなよ。
痛みの最前線で苦しむ、人間史上最大に愛しい存在、弱者へのリスペクトを欠きやがって。

おーぉー、善のハングレ君?
君達の視界では、薄ペラな平和論と社会善が回転しており、体中に札束を巻いてゆくような豊かさのプールで、ほんわかヅラで偽善と抱き合って交尾して、お綺麗な道徳律だ貢献意識だ、ぼこぼこと欠陥品の善を産めよ殖やせよだねえ?

悪しき文明の光景、分度器放っても、一瞬で計れる、地獄直下型の角度を持ったろくでなしの権化君?

認知の歪みだ? 黙れコラ? てめぇの人権意識の歪みの方が末恐ろしいわ。

極端な言い方をすれば、認知力がバグっちまうくらい、格差でボコボコにされる弱者様がいんのに、てめぇら強者は感謝料も慰謝料も支払っていねぇよな?

本来であれば、何も失う者がねぇ奴らをおもっきり扇動して、こっちは暴力性で世間に殴り込みしてやったっていいんだぞ?

てめえらは善のチンピラだが、僕たちは最底辺で頭がイカレちまってなんでもありゆえに、破壊的な野性の爆弾君だからさあ、くっきーみてぇな図体の攻撃性で踏み切ってぴぴぴぴぴ、どか~~~んですのよ?

あくまでも、我々弱者の良心にタダ乗りしているから、てめぇらはポカポカな豊かさで生きられている。
偽善のガソリンで爆走するフリーライダー君?

その事実を脳裏に焼き付けろよ。
ふざけんなよ、クソうぜぇ世間共。
口の利き方を直しやがれ人間界の塵芥。

認知の歪みじゃねぇよこの野郎。
てめぇらが非認知のフタをしちまうだけだろ?
弱者の痛みに目を塞ぎ、直視を一切しねぇで、金銀財宝に繋がる相手にだけ親身な偽善で寄り添い、格差問題から逃げ回ってやがるだけだろ善的トンズラ君?

善的おブサイク君? 善的おブスちゃん?

二度と人様に認知の歪みなんて言葉を吐き散らすな。

善的な負け犬が、偽善的な遠吠えか?
わお~ん、わお~ん、わお~ん。
パチモン小屋に入って、バッタモンフードでも食っとけ。

分かりましたか?
根底から善の知能指数が低い、善の空吹き野郎君?
気付いたら社会悪になっちゃいます君?
弱者みんなに嫌われています君?
人命ぺろぺろ舐め腐り君?

てめぇらの、愛と感謝と敬意なんざ、赤ちゃんのカランコロンと一緒で、音だけうるせぇおもちゃでしかねぇからよ。

何が認知の歪みだ偽善ジェットスキー君?
てめぇがカッコ付けて汚善水を跳ね飛ばしたところで、社会は一ミリも変わらねぇのよ。

所詮は、近間の似たような持った奴らと、既にそこそこある救いを交換し合って、生ぬるい愛をぐるんぐるんと回すだけの、『偽善互助会フェイク螺旋階段』を延々とフリーライダー的に巡り続けて、良い奴を気取れるくらい、目玉までも回しちゃってんだろ?

その事実から目を背けるなよ。
小汚ねぇ善の酔いどれでくるくるパーの、偽善フルマラソン中のちんけな皆様。
いいねぇ~、品性下劣さがみずみずしくてぷるんぷるんぷるんっ、あはっ! あはっ! きゃっははは!
【プッスプッスプッスらべらべらべ♪】のBGMを流して、きゃぴきゃぴな偽善の肌を突っつきたくなるねえ。

僕は20代の大半、2畳~4畳の窓なし部屋にしか住めなくて、鬱症状でぶっ倒れてしまう暮らしなのに、誰も助けてくれなかったぞ、それも5年も10年も待ち続けてもなあ?

にも関わらず お冷えになったキンキンのポリコレ、モラル、コンプラの枕詞を気楽に用いて、自分の心的報酬に繋がる強欲の善をヘラヘラと、減らず口で叫ぶ奴はわらわらといやがって、テラワロスの一言でございます。

自己犠牲の痛みを回避するべく、綺麗事で己を守りまくりのてめぇらが、偉そうに道徳だ倫理だ語ってんじゃねぇよ。

こっちはバンザイ突撃型の、愛と感謝と敬意を破壊的に光らせて、牙を見せる魂で現実世界にぶち込むだけだからさ。

てめぇらの道徳心よりも、僕の猛毒じみたイカれた発言の方が、呪詛で縛られた弱者の心を解く力があると思うぜ。

善のポーザー君たち、今後も偽善トリックを頑張りなよ。
てめぇらなんか一つも役に立たねぇぜ。
聞き慣れた道徳をばら撒いて、でも金はばら撒かないで、口だけうるせぇ片腹痛い偽善のバケモン。

がんばり屋さんな粗悪善の優等生君には、「きっしょー」とだけ羅列された、偽善の賞状を授与する。

自己保守の為だけに固めて来た道徳心を振り回す、Fラン善人の偽善ヤンキーが腐るほどいるモンなあ。

こんだけ格差がある世界で、てめぇら強者の汚さまで隠されたら地獄過ぎんだろ。
ろくに救いが与えられねぇ道徳だ倫理だの悪天候じゃ、弱者はびちゃびちゃ、憂鬱でしょうがねぇぞ。

僕は最底辺密着型の、愛と感謝と敬意を持って生きて行くからよ。

繰り返すが、何が認知の歪みだ貴様?

そら不機嫌躁病にもなるぜ。

てめぇらの人命軽視――正気じゃねぇ生き様が、死神と肩を並べてやがるから、こっちも常時、狂気で対応してやらねぇと、弱者の痛みはどうにも拭えねぇからな。

てめぇらみてぇなモンが跳梁跋扈する世界ゆえに、僕は双極性障害1型になったり、20万文字の遺書を書いたりしてんのよ。

てめぇとてめぇとてめぇらが100%悪い問題だろ?
この世の諸問題は何もかもてめぇらのせいだろ?
諸悪の根源はてめぇとてめぇらのせいだろ?

格差を放置する無自覚な偽善ヤクザ共、くそ食らえな綺麗事ばっかり拡散してんじゃねぇよ。

高度に文明化された人間界なのに、未だに弱肉強食のピラミッドが続く現状でも、まるで耳なし芳一で馬耳東風か?

しょうもねぇ世間のてめぇら共、「自分は良識を備えていますよ~」と実効性のねぇまともさを宣言、宣伝して、人間的に洗練された感じを出しやがるが、てめぇらに愛と感謝と敬意といった言葉は千年早いぜ。

せいぜい自分のグロテスクさに敬礼して、「前例の塗り絵さえやっときゃ、慈善系の雰囲気を漂わせられる! 心が素敵ね~~~~と褒め合い、出来レースかつメッキでしかねぇ愛を回し会って、俺様だけは逃げ切れるぜぇ~♪」と偽善性のケンケンパでもやっときなさい。

何が認知の歪みだよ、笑いをありがとな偽善コメディアン君?
てめぇがてめぇを鏡で良く見て、顔面の歪みでもチェックしとけよ。

認知の歪みがどうたら言ってねぇで、富の偏在、格差構造の歪みを何とかしろや偽善の暴君さん?
てめぇは歪みを直せる職人か? できねぇんだろ偽善念仏君? だったら言うなよコラ?

嫌みだけぶん投げて退散してんじゃねぇよ。

ぐにゃぐにゃに魂が歪んでおります君?
愛と平和を歪ませちゃいます君?
偽善m9(^Д^) - ぷぎゃー君?
元気な偽善ナンセンス君?
撲殺善死ぴぴるぴ~君?
偽善の粗大ゴミ君?
善的吐瀉物君?
偽善糞便君?
善的RIP君?
善的屍君?
善無君?

てめぇらに詩を書いたから、偽善の目玉で読んどきなさい。

パチンコみてぇにうるせぇ、タチの悪い善的パチモンかつ、偽善の立ちんぼなてめぇらで、ファッキンな運動でもやっときなさい。歪んだ善ヅラで本番、おやおや? 腐れの善が泣き喚くおぎゃんおぎゃ~ん、人類の体内=ぴえん系を超える偽善系のオーシャンビュー、バッタモンの善性を高速でスキャン中、偽善温泉「羊水」で事前学習、しょうもねぇ善のガキンチョは産道からキレッキレなダミー善のスタンス、人間社会は紛いモンのダストシュート。「コウノトリは幸せを運んで来たのではありません。猛毒かつ羊頭狗肉な善の穢れを消毒したくて、超極秘の大量廃棄ミッション中、『生誕』の文法をDNA配列にそっと広告し、つまり盛大に嘘の善を吐いている、まやかしの善を嘔吐し、憑き物を落とし、飛ぶ鳥跡を濁して舞うびゅ~ん!」と思考が錯乱中でも、偽善の濁流で溺死した者に献花しよう。敵には容赦せずの喧嘩理論。偽善が資本の奴らへ、毒舌よりも人を不幸にする独善で偉ぶって、慈善が自然死する勢いでケラケラケラと笑いを続け、善行気取りでばちこーんっ、にやけたツラから邪気も相当でございますが、ぱしゃーっと写真を撮って良く見てみ? 罵詈雑言よりも迷惑な社会善の強制と暴走――てめぇらの利己的な善意の暴行で、儚くもこの世を去った者たちが、「かなしいよなぁー、かなしいよなぁー、正義で殴られたら言い返せないもんなぁー、敵討ちもしようがないもんなぁー、毎分毎秒、偽善の犠牲者が舞い込むなあー、梅毒やマイコプラズマよりも痛いよぉ痛いよぉ痛いよぉ、善の不幸性がガチで痛いよなあー。痛いよなあ……痛いよなあ……」と涙ながらに映り込む、怨霊達の臥薪嘗胆がそこにあっから、実はてめぇらがガチのジョーカー、ペテンばらまきの亡者だと誰もが思うじゃん? 嘘八百の善達と漂泊し、善の幻覚かつ前後不覚で赤信号を横断、偽善型注意報がぴっかーん、偽善と偽善と偽善を巻き込んだ多重事故でどっか~ん!

そうか……これは極寒の多様善ですか?

冬季オリンピックよりか、涙も凍てつく善行の動悸にドーピング

「善性! わたしたち善選手一同は」

善が走った! 善が飛んだ! 善が投げた!
善が笑った! 善が泣いた! 善が叫んだ!
善の拍手だ! 善員、善韻、善人、善身善霊――善世界が善大に湧いた!

※遺書より自己引用

20万文字の遺書を公開した真の理由

冒頭で唐突に書き放ったとおり、チェレンコフ光を見たかったんだ。

ちょうど僕の生まれ年、1987年発表の小説――はじめてワープロで書かれた芥川賞受賞作、『スティル・ライフ 池澤夏樹』を読んだ事があるだろうか?

スティル・ライフ=静止画、まさに心の跳ねがピタっと静まり、あたかも森羅万象、地球惑星、全人類が瞬く間に、素敵な絵画作品になった如くで、自分と世界を丁寧に眺めたくなる至極の一冊です。

リリカルでメディシン、慌ただしい心に作用する薬剤的な美文により、何度となく心を救われて来た。

世界観を一言で伝えると、『生き方に迷うフリーターのぼく』と『公金横領の罪を犯した佐々井』による、ユニークな共同生活である。

佐々井は奪った現金の山を、【透明人間であるための資格証明】と捉え、あえて手を付けず、自由を実現するパスポートにしているのだ。

すなわち、「今ここに大金がある。俺はなんだって可能だ。札束でぶっ叩けばやりたい放題だ!」という、お金に内在する魔力――自由、安心、自信などのエネルギーだけを頂戴して暮らす。

そして、僕が本書を読んだのは軽く10年以上前だが、ふとしたはずみで考えた。
これまで数十回、数百回とイメージを膨らませて来た。

「池澤夏樹は、スティル・ライフ=静かな生活と解釈していた。僕も一度どこかで透明人間になって、優しく静かに絵画観賞をするような日常を体験したい。世俗の喧噪や、僕自身の先入観――愚かしさの積み上げを全部すっ飛ばして、本物の現実に立って、本物の自己対話がしたいなあ。じゃないと共同幻想のボタンを外せない、人間風情のネジを外せない。自分の限界を突破できない。そうは言っても、僕には巨額のお金を盗み取る知恵も度胸もない。なんて無力なんだ……。どうする? どうしよう? 諦めるしかないのか? いや、たった一つだけある! 何百回も想像を巡らせて辿り着いた! 今すぐに使える最終手段があるじゃないか! 覚悟さえ決めればやってのけられる一撃が! それはそれは自己犠牲と自己否定の連続であり、大勢に嫌われて、罵倒されて、人間性を疑われて、全てを失う諸刃の剣かもしれない! でもきっとお金を超える魔力があるぞ! きっと新しい自分になれるぞ! そら大勢に失笑されるさ、呆れられるさ、馬鹿にされるさ! でもきっといつの日か、誰かの魂にまでぶっ刺さる情熱を得られるぞ! 良いとか悪いとかじゃない! 世間の流れに身を任せるな! もしかしたら積み上げた物が全部崩れるかもな! 当分、路頭に迷う事になるかもな! でも大多数と同じ道に進んだ奴なんざ、遅かれ早かれ枯れてしまうのさ! 躁に頭を下げるんだ! 胸に手を当てろ! 己自身に願え! 己自身に祈れ! 十字を切りながら捨て身で特攻せよ! 躁転のドーパミン過多でバンザイ突撃するぞ! やるぞやるぞやるぞ! これぞまさに創造的破壊だよ! 何をやるか分かっているよな? 仮想的死没だよ! 社会的なる絶命だよ! なぜかって? 死とは最大の権威じゃないか! 犯罪者の佐々井なんかよりずっと透明だ、自由だ! 不安や弱気なんてしみったれた悩みは消えるぞ! 神秘的な心持ちでの自己対話が始まるぞ! パラダイムシフトを巻き起こせるんじゃないか!? 人間社会のけたたましさから抜けるぞ! 仮想の死骸になるんだ! 仮想天国に旅立つんだ! 仮想昇天で弔われるんだ! 常軌を逸した飛び込みの先でいつか、どこかの誰かと、そしてお前自身の心を踊らせる牙が、まばゆい熱量の光を解き放つんだ! 食えなくなったっていいだろ! 貧しい生活になったっていいだろ! 見栄も自己保守も経済合理性もかなぐり捨てろ! ステレオタイプもホメオスタシスもゴミ箱に投げ入れろ! ちっぽけな現在の自分を守って未来の自分を殺すんじゃねぇよ! 3年後5年後10年後、いつの日か、全部ひっくり返せるぞ! その為に痛みの中心で歯を食いしばれ! 血走った目玉をギラつかせろ! 痛々しく思われても立ち向かえ! そして魂の雄叫びを響かせろ! さぁ『スティル・ライフ』を始めようぜ!」

――僕は随分と前から、躁転が起きると度々、胸中でこんな宣言をし続けていた。

つまり僕個人の躁状態とは、人間の皮を破り捨て、「死ぬまでに必ず傷跡を残してやる!」と動物性を剥き出しにし、存在証明のエネルギーで吠え立てる事なのであります。

躁が導いてくれる世界との一体感、何もかもに溶け込んで、何もかもと握手して、何もかもと一緒に空を飛んでいるような、自己超越の感覚を強烈に味わえるんだ。

さあ、やるべき事をやろう、天地万物と踊りましょう、全現象を愛そうじゃないか!

それはまるで、僕自身を愛する僕自身の神様になったみたいなんだ。
神の杖を一振りすれば、人間風情が持つ諸般の事情を切り捨てられる。
んでもって、「何者にもならなくていい。何者にも縛られなくていい。魂を真っ裸にして駆け走れ!」と、雲の上から微笑んでメッセージを流し込み、『自分自身』というゲームをプレイしているみたいなのさ。

みんなありがとう。みんな優しいなあ。みんな素敵だなあ。
森羅万象が大笑いしている。あはは、あはは。あはは。あはは。
みんながぴかぴかだ。みんながぷるぷるだ。みんながにこにこだ。
愛だ愛だ愛だ愛だ愛だ愛だ愛だ愛だ愛だ愛だ愛だ愛だ愛だ愛だ愛だ。
幸せだなあ多幸感だなあ快楽だなあ極楽だなあロマンチックだなあ。
あはは。あはは。あはは。あはは。あはは。あはは。あはは。あはは。
今ここにある愛しい事象の全てを言葉で規定なんかしなくっていいよね。
現実の流麗さに飲み込まれる事で全てに溶け込めるエクスタシーであはは。
あはは。あはは。あはは。あはは。あはは。あはは。あはは。あはは。あはは。

――う~ん、今この瞬間も躁状態かもしれないなあ、僕の躁転を言語化すると、こうした超感覚で魂の底から愛が跳躍を見せて、カオスとコスモスが抱擁する最頂点で無限大に広がってゆき、やにわにパキパキパキと耳心地の良いラブリーな音を立てて砕け散り、とっても優しい顔の飴粒や雨粒となって、「あはは、あはは、あはは」と笑いながら降り注いで来てくださって、全人類と全事象と全概念とが結ばれてこれまた、「あはは、あはは、あはは」と大笑いしながら、キュートでスウィートでファンタスティックな水流でかき混ぜられて、「みんな友達! みんな親友! みんな仲間! みんな兄弟! みんな家族! みんな大好き! みんな幸せになってね! みんな愛している! 好き好き大好き超愛してる! 自分は全人類だ! 自分は地球惑星だ! 自分は宇宙空間だ! 自分は諸行無常の響きだ! 自分は全知全能の神だ! 自分はビッグバンだ!」などと、この世の全てと融合した気持ちでほんわかし、個人感覚が薄れた超巨大な存在として、僕は超常的で超群衆となり、「あははははははははははははははははははははは!」と無限を代表した全存在の迸りで、十全十美の大合唱をして、地球を何百回、何千回、何万回、何十万回、何百万回、何千万回、何億回、何兆回、何京回と、もう数えていられないくらい、ぐ~るぐ~るぐ~るぐ~るぐ~るぐ~ると果てしなく、みんなで渾然一体の空中遊泳をして、つぶらな瞳の宇宙が奏でる微粒子と水の原子核をあ~~~~んっと飲み込んで、一万年に一度くらいの確率さえもブチ砕く破壊的な叫びで、ぐわぁぁああああああああああああああああああ~~~~~~~~~~~~~~と、チェレンコフ光を放射するんだよなあ。