問題解決の始まりには、人間の下心的な感情が必要
『なぜ多くの人が「貧困女性」をウソと思うのか | 貧困に喘ぐ女性の現実 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準』という記事がある訳だが、実は誰もウソとは思っちゃいない。
興味がない、触れたくない、好きじゃない。
そんな感情反応の末に、無視を決め込んでいるだけである。
数多くのメディアが、ブス女性、水物女性、家出女性、バツ持ち女性ばかりをまな板の上に乗せるもんだから、『貧困女性』の実態について考えるのが心底嫌になっているのだ。
純粋で可愛い貧乏な子を多数出演させるのが当たり前になれば、最悪の事態は立ち所に解決するのでは?
ゆえに、ぱっと見でゲンナリする女性ばかり取り上げているようでは、逆効果、悪循環しか生まない。
そこにあるのは、『貧困女性』で儲ける業界人たちの皮肉笑いだけである。
貧困女性は、訴求力のあるコンテンツでしかない
確実なことから書くと、『貧乏女子』『貧困女性』『絶望婦人』という取り上げ方をされる女性たちは、「ドル箱」としていいように扱われている。
『貧乏人』を訴求力の高いコンテンツと見做す者が多く、大衆は自分より劣った存在を見ることで、心を整えたり、勇気を貰えたり、幸せになれたりするものである。
大方の人間は、他社と比べる(社会的比較)ことによって、幸せか不幸せかを判断して生きてゆく。
したがって僕たちは、無意識に「不幸せな者」がいてくれなくちゃ困ると考えている。
悲惨な人々をロイター式踏切板にして、幸福な跳躍を果たす者だらけなのだ。
同情はしない。感謝する。役立てる。
利己的な思考・言動は、人間の中で固定された心理である。
よって、あらゆるメディアが『貧困女性』についての特集を流したところで、その情報を元に、「助けてあげようよ!」と立ち上がる者などいない。
いるとするならば、自己の経済的・地位的・名声的――つまるところ我欲を満たせるビジネスに結びつけようとする者だけである。
その他の善良な庶民は、一時的に正義感を燃やすことはあるが、「どうせ他の誰かがなんとかしてくれるでしょ」という『社会的手抜き』の発生によって、救済行動を取ることはしない。
貧困女性を救うには、徹底した『女の売り込み』作業が必須
人々は、どこまでも無関心という前提で考えるべきだ。
バラドル業界と遜色ないマーケティング戦略を用いて、『貧困女性のアイドル化』を進行させ、大衆に興味を持たせる。
貧困女性と銘打ったメディア作品には、今後一切、幸の薄い喪女(非モテっ子)を登場させてはならない。
醜い顔立ち、陰険な表情の女性をクローズアップしても、反感を買うだけになるからだ。
人間は感情的生物であるがゆえ、容貌の悪い女性を見ると、「自己責任」「お前も悪いんじゃない?」「どうでも良い」というネガティブ反応、意志決定をしてしまいがちだ。
ことに、拡散文化が極まってきたネット時代においては、悪意を伴ったシェア行為が連発される。
その結果、陰気くさい出演者だけでなく、番組で取り扱ったテーマそのものにマイナスイメージが付着してしまう。
見た目の悪い出演者×社会的問題=触れたくない事柄!
この計算式によって、まず間違いなく実態は悪化してゆく。
こうした人間界における道徳的危機を打破するためにも、『女の売り込み』が急務だ。
見た目の良い出演者×社会的問題=解決するべき事柄!
少なくとも男性の頭の中では、こんな図式が急速展開し、貧困女性へ思いを馳せるようになる。
であるから、年収112万円(貧困層ライン)以下の、美人や美女に報酬を支払って出演させるべきだ。
そういう容姿の整った子たちが、貧しい生活に喘ぎながらも、喜怒哀楽を忘れずに頑張って生きている姿を見せると、視聴者は深く同情し、共感を覚える。
下心のある善意の先に善行が存在する。
ブスのために走った者など、この歴史上ただの一人も存在しない。